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野崎まどさんの読んできた本たち 母はひたすら漫画を読む人間だった。字の本も渡されたけど…

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文字の本を敬遠していた小学生時代

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

野﨑:いちばん古いとなるとたぶんすごく小さい頃になりますが、字の本の記憶があんまりなくて。漫画を読んだのが最初じゃないかと思うんですよね。自分で選んだものではなくてたまたま実家の本棚にあったどれかです。『じゃりン子チエ』といった、親の年代で中央値になるような漫画だと思います。
親が「ビッグコミックオリジナル」とか「モーニング」といった漫画雑誌を読んでいたので、そういう系統の漫画が多かったと思います。黒鉄ヒロシさんの『赤兵衛』とか。あと、こういう話をするのは恐縮なんですけれど、実家の本棚にずっとあって今も憶えているのが競走馬のコメディ漫画で、ものすごく脚の短いサラブレッドが主役なんですが、ひたすらスケベな内容で、タイトルも『駄馬コマンコスキー』という。まだ小さいので単語が卑猥だっていうことが汲み取れなかったんですよね。学校で「『駄馬コマンコスキー』面白いよ」とか言っちゃって友達の親から注意を受ける、みたいなことがあったので忘れられなくなった漫画です。

――(笑)。野﨑さんの親御さん、相当漫画がお好きだったんですか。

野﨑:うちは父親が早い段階からいなくなって母親に育てられたんですけれど、その母がひたすら漫画を読む人間だったんです。買っては捨てて、買っては捨ててで、量だけはありました。置いてある漫画を子供が読んでも気にしなくて、勝手に読んでいいよという感じでした。自分もまだ他に趣味もない年齢でしたので、自宅の漫画を勝手に吸収していきました。『ドラえもん』も全部読んだし、手塚治虫もいっぱいあったので読みましたし、『プロレススーパースター列伝』なども読みました。流行っている漫画はなんでもある感じでした。たまに親から「これなら読めるんじゃないか」といって字の本も渡されるんですが、選書した形跡が全然ないんですね。『ビートたけしのみんなゴミだった』を渡されて、それを子供に読ませて一体どうしようと思ったのか、今でも全然分かりません。子供を読書家に育てようとか、そういう意図はなかったと思います。

――一人っ子ですか。

野﨑:はい。一人っ子で、母親が仕事に出ている間は祖父母と一緒に過ごすことが長かったですね。そんなにテレビを見る家でもなく、ゴロゴロして漫画を読んで過ごすことが多かった気がします。

――じゃあ戦隊ものとか「ガンダム」のようなアニメとかはあまり見なかったのでしょうか。

野﨑:自分が生まれた年に「機動戦士ガンダム」が始まったんですよね。なので一応知ってはいるんです。母がアニメーションの彩色、仕上げの仕事をやっていたので、「ガンダム」も沢山塗っていました。家にもセル画が山積みになっていて。それだけ近いと逆に興味もわかないというか。家にあるもの、くらいの感覚でした。小学校高学年くらいからはガンプラを作りましたけれど。

――アニメがそんなに身近な存在だったとは。

野﨑:一家総出で、定年退職した祖父がずっとセル画を作る機械(トレスマシン)を動かしていたりしたので、アニメに育ててもらったようなものです。
アニメの仕上げって、昔は手で絵具を塗っていたのでパートタイム主体の仕事だったんですね。主婦の方が山ほど働いている現場で、一時期100人くらいいたんじゃないかな。その時にひたすら機械に紙と透明のセル画を通し続ける作業があって。苦痛な仕事なんですけれど定年した祖父にはちょうどいいみたいで、朝の5時から夕方の5時までずっと機械をかけ続ける、という感じでたくさんセル画を作っていました。

――小学校に上がってからは、文字の本は読むようになりましたか。

野﨑:そんなに多くはなくて、多少字の多い漫画を読むようになったくらいだと思うんです。漫画ではいしいひさいちさんがすごく好きでした。いしいさんは政治風刺のギャグが多いんですよね。それを読んで「サダム・フセインって誰」と訊いたり、「この人誰」「読売新聞主筆の渡辺さんだよ」と教えてもらったりしていました。いしいさんの風刺漫画にはプロ野球選手が結構出てくるので、スターシステムが分からないと駄目なんだ、などと勉強させられました。いしいさんはものすごくたくさんの4コマ漫画を描かれているので、子供の速度で読んでいると徹夜になっちゃうんですよね。いしいひさいちを読んで徹夜して学校に行く、みたいなことが頻繁にあって、わりと不健康な暮らしをしていました。
いしいさんは今も「小説新潮」に「剽窃新潮」という連載をされていてとても素敵なタイトルだと思います。

――国語の授業は好きでしたか。

野﨑:好きではあったと思うんですけれど、あまり印象には残っていません。教科書に載っているコラムは好きで先に読んじゃうんですけれど、読んだら終わりでそれ以上興味が働かなかったです。理科のほうが好きだった気がします。

――作文や読書感想文は。

野﨑:嫌々書いていた記憶があって。素直な感想を求められているわけではないという採点基準の気配を感じて、それに合わせて書くのは癪だなという気持ちがあったと思います。一応、ある程度その基準に合わせて書いて提出するんですけれど、そこに楽しさを見出すことはなかったです。書かないですむならどんなにいいかと思っていました。
もうタイトルも憶えていないんですが、読書感想文で読まされたのが、捨てられた犬が旅して飼い主の元に戻るという本で、これが全然面白くなくてですね。全然面白くないのに感想文を書かなくてはいけないことが、もうそれ以降字の本が嫌いになるくらい嫌だったんです。なので小学校の頃は本当に、字の本はむしろ避けているくらいの感じでした。小学生時代、字の本は教科書を除いたら10冊も読んでいないと思います。

――図鑑などを眺めたりはしましたか。

野﨑:図鑑は好きでした。学研の本だった気がしますが、家に基本的な図鑑のシリーズが揃っていて一通り読みました。それと、「ひみつ」シリーズが図書室か図書館に30冊も40冊もあって、それを全部読んだ気がします。あれは欄外のコラムまで読みました。それも学研ですよね。学研に育ててもらったような感じですね。
母は勉強を教えてくれたりはしなかったんですけれども、自分が大量に漫画を買うので、子供が本が欲しいといえばなんでも買ってくれたんです。逆にこっちが欲しがらないと何も買ってくれないので、ある程度損得勘定がつくようになると、「何か買ってもらわないともったいない」となって、「図鑑が全部ほしい」という交渉をしたりしていました。

――図鑑の中では何が好きでしたか。動物とか昆虫とか車とか。

野﨑:特別これが好きだ、というものがあんまりなくて。宇宙はちょっと好きだった気がするんですけれど、そこまで宇宙ばっかり読んでいたかというとそうでもないなという。まだ好みの傾向ができている時期ではなかったので、平均的にさらっただけでした。
宇宙といえば、5、6歳の頃に赤塚不二夫さんが書いた『ニャロメのおもしろ宇宙論』を繰り返し読んだ気がします。半分漫画、半分文字みたいな本で、ブラックホールに近づくと人間はスパゲッティになる、などとニャロメがスパゲッティ化現象について説明してくれたりして。あれは単純に面白かったし、入門として充分な本でした。それがわりと宇宙好きになった入口だったかもしれないです。その頃からはもう理論も結構変わっていると思うんですけれど。

――小学校の頃、はまったものや打ち込んだことはあまりなかったのでしょうか。

野﨑:何かにはまって打ち込んだことが結構少ない人生だなと思います。飽き症というのが大前提にあって、ひとつのことを長くできないタイプなんです。だから広く浅くいろいろ触れていて、ゲームやミニ四駆といった趣味も一通りやりましたが、どれも続かない状態でした。それは今も変わらないです。何かやってみてある程度楽しんだら次、みたいなところは子供の頃からです。

――放課後は、外で遊ぶよりも家で漫画を読んでいることが多かったですか。

野﨑:運動神経は全然ないほうで、スポーツはやるのも見るのも好きじゃなかったんです。背も低くて駆けっこも遅いほうのグループだったので、身体を使う遊びは基本的に全部嫌いでした。だから自然と趣味はインドアのものになりましたね。年代が上がるとサッカーも好きになったんですが、プレイするのではなく見る専門でした。

――図書室や図書館、書店はよく利用していましたか。

野﨑:学校の図書室にはよく行っていて、図書館に通うようになるのは中学生になってからかな。本屋は、親がいくらでも買ってくれるので家からいちばん近い書店に入り浸っていました。「本買いに行ってくる」というと親が何の本かも聞かずに1000円くらいくれるので、それで「こち亀」を買ったりして。近所の本屋で好きな本を自由に買えるという、豊かな小学生時代を過ごしました。

――振り返ってみて、どういう子供だったと思いますか。

野﨑:内向的といえば内向的で、社会性は低かったので友達の人数も少なくて、1人か2人の友達と延々遊んでいました。友達がいない時はずっと1人で遊ぶという感じで。
親が奔放なので距離を測りながら暮らしていて、ものを買ってもらうにしても交渉の仕方を考えるような子供でした。小賢しい感じではありました。
何か特筆して優秀な分野があるでもなく、勉強がめちゃくちゃ得意ということもなく、塾も通っていなかったですし、習い事もひとつもやっていなくて、"どノーマル"な状態でいたんじゃないかなと思います。

――自分で漫画を落書きしたり、物語を空想したりはしていましたか。

野﨑:一切やっていません。本当に読むだけでした。絵をちょっと描いてみたことはあるんですけれど下手でしたし、飽き症なので続かないんです。もうちょっと後になって趣味で絵を描くようになった時期もありましたが、小学生の頃は落書きにしても5回か6回描いたことがあるだけという程度でした。

高校受験直前の読書

――中学校は地元の学校に進んだのですか。

野﨑:はい。親も教育熱心でなく、特に中学受験することもなかったです。中学生の頃も本当に字の本は読んでいなかったです。ようやく字の本に対するある種のアレルギーみたいなものは抜けてきたとは思いますが、どうしても読書は面白さを味わうためには腰を据える必要があるスローリーな娯楽という認識で、ゲームみたいな早く刺激を味わえるものがあるとそっちをやってしまう、子供らしい子供ではありました。
中学生の頃は周りにゲームをやっている子が多くて、自分もその流れに乗っていました。ファミコンからスーパーファミコンになるくらいの時期で、「ファイナルファンタジー」の「Ⅴ」「Ⅵ」とか、世に言う格ゲー、格闘ゲームをみんなでやっていました。「ストリートファイター2」とか「餓狼伝説」とか。強くないと長くプレイできないので、ゲームが強いか弱いかで立ち位置が決まる社会が存在していました。
近所にレンタルビデオ屋があって、そこにゲームセンターの筐体が一台だけあったんです。ワンプレイ50円なんですけれど、店員の兄ちゃんの機嫌がいいとタダでやらせてくれたので、そこを楽園として子供たちが30人くらい集まっていました。それが中学生の頃の思い出という...。だから「餓狼伝説」の攻略本なんかは熱心に読んでいました。

――部活は何かやっていましたか。

野﨑:電気工作部という、はんだ付けとかをして何か作ってみようという部活があって、入ってみたら綺麗に全員幽霊部員でした。誰にも会わないので僕も行かなくていいのかなと思って2年くらい行っていなかったら、顧問の先生に泣きながら怒られて「どうして君たちは一回も来ないんだ」と言われてしまいました。それで最後の年にみんなで協力してスピーカーを作りました。それが最初で最後の思い出で、部活動に関しては帰宅部とだいたい同じでした。

――ああ、でもやっぱり電気工作みたいなものには興味があったんですね。

野﨑:文系より理系のほうが合っていました。運動部は最初から選択肢になかったですし、なるべくアクティブでないものを選ぶとどうしてもそっちになりました。

――その頃ってなにか将来なりたいものとかありましたか。

野﨑:あまりなくて。小学生の頃に親がアニメの彩色の会社を辞めてしまって、その後結構職を転々としたんです。お好み焼き屋を開いたり、仕出し弁当をやったりとか。それを近くで見ていたので、自分はもうちょっと堅い仕事に就きたいなという気持ちがありました。本人はすごく楽しそうなんですけれど、子供からすると不安定さしか見えなくて、いつ親が無職になるんだろうと思いながら過ごしていました。

――お母さん、ひとつ立ち上げるだけでも大変なのに、いろいろやられていたんですねえ。

野﨑:凝ったプランを練って立ち上げるわけでもないので、どれも2年もすると潰しちゃうんですよね。なので、自分が飽き症なのは遺伝だなと思います。
余談ですが、親が仕出し弁当の仕事を始めた頃、お昼になると契約しているところにお弁当を届けに行くのを手伝ったりもしたんです。昔の伝手でいろんなアニメスタジオにお弁当を届けていて、当時のスタジオジブリなんかにも行きました。

――へええ。野﨑さんは東京の墨田区のご出身ですが、お好み焼き屋はどこに店舗があったのですか。放課後にお店に行ったりしていたのかなと思って...。

野﨑:店は練馬区の大泉学園で開いていました。大泉学園近辺にはアニメーションのスタジオがいっぱいあったので。知り合いが多いところでやろうという算段だったんだと思います。その店は3年くらい続いたのかな。友達の奥さんと協力して開いて、結局最後はその人にお店譲ったんだったと思います。
中学生時代の話をしようとすると、僕は並みの中学生としてしか生活していなかったので、親の面白話ばっかりになってしまいます。

――確かに、お母さんに興味津々です。

野﨑:いまも元気にしています。

――野﨑さんの新作『小説』では、主人公の内海修司君が12歳の時に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の貸し借りをきっかけに外崎真という読書仲間を得ます。野﨑さんが『竜馬がゆく』を読んだのはいつ頃だったのですか。

野﨑:中学3年生になってからですかね。『竜馬がゆく』をよく憶えているのは、自分の身に起こったこととリンクしているからですね。高校受験の直前で、いい加減勉強しなくちゃいけないのに『竜馬がゆく』を読み始めて勉強が手につかなくなっちゃったんですよね。それでもラストスパートしなければという頃に、事業を転々とする母に対して祖父が「もうちょっと真面目に生きないか」とガチギレしたことがあって。母は「私の稼ぎで食べてるのに何言ってんの」みたいな感じで、家の中で大喧嘩を始めたんです。それが受験の2日前くらいでした。そのなかで僕は『竜馬がゆく』を読んでいたというのが、司馬遼太郎との思い出です。なんとか受かったからよかったですけれど。

――そういう家族の揉め事も、冷静に眺めている子供だったのですか。

野﨑:みんな自由に生きればいいじゃないかと思っていました。祖父と母はしょっちゅう喧嘩していたんですけれど、二人とも江戸っ子なので、いまいち陰湿さがないんですよ。宵越しの銭は持たねえぜみたいなもので、翌々日にはすっかり忘れている感じでした。だから非常に建設的でないというか、物事がまったく前に進んでいかないんです。それもあって自分は堅い仕事につきたいなと思っていたんですけれど、今こういうことになっています。

理科の教師による課題図書

――高校も家から近いところに通っていたのですか。

野﨑:墨田区の高校に進学しました。成績は悪いわけでもないが良いわけでもない、本当に真ん中くらいの高校でした。上を目指す意欲もなく、勉強しなくても入れるのはここ、みたいなところに入りました。

――高校時代の読書生活は。

野﨑:その頃ようやく本を読む環境が整ってきました。ある程度友達が増えるんですけれど、文芸部の友達がいたりして。僕は演劇部だったんで、文系文化に触れる土壌が揃ったんです。本を読むようになりましたし、舞台もちらほら観に行くようになりました。あとは、当時趣味にしていたことのひとつとして、親戚から譲ってもらったパソコンを触っていました。windows95が出た頃だったかな。僕が住んでいた墨田区は自転車で秋葉原まで行ける距離感なんですよね。秋葉原まで行くと、ついでに神保町まで行って本が買えました。それで毎日のように秋葉原、神保町、墨田というコースを辿って、書泉とかで本を買っていました。

――どのような本を選んでいたのですか。

野﨑:ミステリや伝奇小説に寄っていったんですが、それは親からの影響があったと思います。親から授けられて読んだ本に司馬遼太郎の他に半村良さんとかもあって、その派生で講談社のノベルスに流れて高橋克彦さんとか。それと、当時ノベルスで人気になってきた西尾維新さんですね。森博嗣さんはもう『すべてがFになる』が出ていたので、そのあたりをシリーズで読んでいきました。
ミステリは謎解きがかっちりしていますが、伝奇ものだとミステリの匙加減をぶち抜いてすごいどんでん返しをしてくれたりするので、それで伝奇も面白いなと思っていました。半村良さんの『妖星伝』はやっぱりすごく好きです。高橋克彦さんはミステリだと『写楽殺人事件』とかの系統になりますが、伝奇だと『竜の柩』というシリーズがあって、めちゃめちゃ面白いんですよ。新聞記者が古代の謎を追っていく話で、ラストに墓に埋まっていたのは実は......どこまで話していいのか分からないんですけれど。ものすごく飛躍したSF展開になるんです。しかも続篇があって、最終的に、その新聞記者の正体は......となって、もう何言ってるかよく分からない展開なんです。ものすごい飛躍で、すごく自由だなと思いました。小説って何をやってもいいんだな、ということをその頃に教わったように思います。

――エンタメを幅広く読まれていたんですね。

野﨑:どれも広く浅くになってしまって、結局半村良さんもまだ読めていない作品があるし、全部読み切った作家のほうがまれだと思います。一応作家読みもするんですけれど、慣性の推進力が失われてしまうという。

――高校で演劇部だったとのことですが、なにかきっかけがあったのですか。

野﨑:最初の2か月間はパソコン部に入っていたんですけれど、そこに演劇部が公演のチラシを作りにきたんです。その時に興味がわいてそのまま演劇部に入りました。裏方をやって、たまに役者をやって、という感じでした。お芝居も観に行くようになりましたが、結構お値段がかかる娯楽なのでそんなに頻繁には行けなかったです。

――ご自身で脚本を書いたりもしましたか。

野﨑:その頃から成井豊さんのキャラメルボックスや劇団☆新感線があったので、そういう非常に高品質で面白い演劇を観てしまうと自分に作れるとは全然思えなかったですね。別世界な感じでした。演劇部の中にはオリジナルの台本を作る人もいたけれど、僕はノータッチでした。
毎年、演劇部のインターハイ的なコンクールがあって、地区予選に出るんです。墨田区からだいたい7校くらい出て、採点で順位をつけられるんです。だいたいうちはいつも4番くらいで、近隣では両国高校の演劇がいちばん面白いんです。偏差値の高い人の作るエンターテインメントはやっぱり違うなと思いました。こっちとは考えている量が2倍も3倍も違う。プロになるとまた変わるんでしょうけれど、高校生くらいの頃だと如実に頭の回転の差が出るというか。受験の時にすでに演劇の闘いも始まっていたのだなと、一抹の悲しみをおぼえました。

――パソコンでは、どんなことをやって遊んでいたのですか。

野﨑:高校生の頃はインターネットが本格的に始まる前だったので、みんなローカルでプログラムを組んだりしていました。簡単なゲームを作って文化祭で来た人に遊んでもらったりして。その頃はパソコンを使えると結構なアドバンテージがありました。キーボードを打てるだけで重宝される時代ではあったので、字を書く上でも何かを作る上でも、良い方に働いたなと思います。

――高校時代、小説以外で、印象に残っている読書体験はありますか。

野﨑:当時、星野先生という理科の教師がいたんです。結構エキセントリックな人で、それこそ『小説』に出てくる教師の寄合則世みたいなキャラクター性のある先生だったんですね。その先生が自分にとって理系の恩師にあたるような立ち位置になりました。
その頃、漫画を読んできた流れで佐々木倫子さんの『動物のお医者さん』を読み、獣医は面白そうだと思ったんです。本当に、『動物のお医者さん』を読んだというだけのきっかけです。

――あれは名作ですよね。北大の獣医学部が舞台のモデルですよね。

野﨑:あれを読んで北大に行きたくならない人はいないですから。でも北大はとても狭き門なので、当時の自分の学力と照らして関東の私大を目指すことにしました。それでも獣医大は大人気で、進路指導でこの偏差値じゃ絶対無理、と言われました。2年生の時だったかな。
そうしたら星野先生が「獣医大に行きたいんだって?」と声をかけてくれたんです。「なら、推薦入試で小論文の一点突破だよ」って。それこそ『小説』で外崎真が高校の推薦入試でやったようなことを言ってきたわけです。「一点突破といってもどうしたらいいですか」と訊いたら「小論文っていうのは、感想文を書くようなものだ」と言って、先生に渡された本の感想文を書く、ということを1年半くらいやったんです。主にブルーバックスや科学啓蒙書の類を読まされる時期がしばらく続いたので、影響を与えられたと思います。
ブルーバックスは理論がそのままタイトルになっている本がいっぱいありますよね。都筑卓司さんの『四次元の世界』とか『不確定性原理』とか。そうしたものを、基礎から順番に読まされていました。進化論から始めて宇宙の原理とか、クォークについての本とか、読んだら読んだで面白くて。先生も感想文を書かせるよりも読ませるのが主目的だったんでしょうね。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のような、現代科学を標榜する上でベースメントとして押さえたい本を一通り読ませてくれた、いい先生でした。正直、「クォークの本を読んでも感想とかない」と思ったですけれど、それはそれで、ない感想をひねり出す訓練になりました。

――ものすごくいい指導だなと思いました。めちゃめちゃ勉強になりますよね。

野﨑:これで受験に落ちても財産になるだろうと楽しんで本を紹介してくれましたし、ありがたいことにそれで受験に通りました。

――小論文一点突破で、ですか。

野﨑:完全に一点突破でした。推薦入試に行ってみたら数学二問と小論文だけだったんです。数学も図形の問題で、わからなかったので定規で測って解きました。小論文は今思い出しても人生の中でトップ5に入るくらい完璧に書けたテキストだと思います。

――どんなテーマだったんですか。

野﨑:臓器移植の倫理観がテーマでした。その頃、遺伝子操作でカエルに人間の臓器を作らせることができるようになった、という科学ニュースがあったんです。それを移植することの倫理観についてどう思うか、という。
思い出すとあれが、何をどこまで書いたらどう受け止められるかという、読者に対する意識が強く働いた瞬間でした。耳障りのよい言葉は湧き出てくるけれど、美辞麗句に終始しては心の声という感じが出ないな......、などと考えながら書いていって。規定が800字だったんですけれど、800コマ目に「。」と書いた時に完璧だと思いました。結果無事受かりました。

――素晴らしい。

野﨑:進路指導の先生がいちばんびっくりしていましたね。

読書と創作に没頭した学生時代

――獣医大のカリキュラムってどんな感じなんですか。

野﨑:6年制で、1年目は一般教養や英語とかフランス語とかの科目があり、多少遊ぶ余裕もありました。その後はだいたい全員同じものを一律で学ぶ感じですね。ほとんどすべて必修科目で落とせない、という感じでやっていくことになります。

――そんな大学時代の読書生活はいかがですか。

野﨑:一人暮らしが始まったんです。大学は神奈川だったので最初は墨田から1時間30分かけて通っていたんですけれど、往復3時間かかるのが面倒なので母に相談したら「一人暮らしするべきだ」となり、安いアパートを借りました。『小説』で内海が暮らしていたような、白アリに食われてボロボロのアパートでした。
これが非常に自由というか。獣医大は6年制で、それはもちろん勉強するための6年なんですけれど、勉強が疎かだと時間が余ってしまい、それはそれで有意義に活用させていただきました。
ひたすらブックオフに通い続けたんです。幸運なことに、大学が神奈川の相模原市と東京の町田市の境にあって、そのあたりがブックオフの創業地なんです。そこを中心にチェーンとして広まっていくので、アパートから自転車で行動できる範囲にブックオフが15軒とか20軒とかあるんです。欲しい本を探すとどこかの店舗に必ずある状態でした。休日となると朝の10時に自転車に乗って、ブックオフ20軒を回って夕方の6時に帰ってきて、夜から朝まで本や漫画を読むことができたので大変幸福でした。

――その頃はどんな本を読んでいたのですか。

野﨑:そんなに幅が広がったわけでもなく、ミステリとかSFとかで好きな作家ができたらその人の作品をポツポツと穴抜けで読んでいくのを繰り返していました。大学の頃は時代小説は少なかったかな。伝奇も面白く読んではいました。その頃、新伝奇ムーブメントみたいなものがあって。『月姫』とか、アダルトゲームの『Fate/stay night』とかもそうなんですけれど、新しい伝奇を読むことが結構ありました。
アダルトゲームって、単純にHなもので売れているものもあるんですけれど、今も活躍されている作家さんが手掛けた、文章が強いものもあって。テキスト量が膨大なんですよね。小説だと20冊分あるようなテキストが1本のゲームに入っていたりするので、読み始めると結構かかりっきりになっちゃうことがありました。それで、しばらくエロゲーしかできない時期がありました。
あと、やっぱり漫画は手軽なのでひたすら読み続けていました。小中高を通して漫画読んだりゲームやったり小説読んだりと趣味が増えていって、大学時代はそれを全部やっているという感じです。時間があったらエンタメを消費していました。

――新たに開拓したジャンルはありましたか。

野﨑:大学の頃、新たにできた友達によって趣味が変わることもありました。妙に少女漫画を読み込んでいる友達がいて、お薦めの少女漫画を読み始めたらめちゃめちゃ面白かったんです。それで2年くらい少女漫画をずっと読んでいました。それはわりと、今の自分の作風に反映されている気がします。
主に読んでいたのは「LaLa」と「花とゆめ」の系列で、桑田乃梨子さん、わかつきめぐみさん、田中メカさん、マツモトトモさん、ギャグマンガでは立花晶さんとか。田中メカさんの『お迎えです。』はアットホームなコメディで大好きな作品でした。
CLAMPさんだと『X』とか『聖伝 -RG VEDA-』を読んでいた気がします。西炯子さんも。「ウィングス」という雑誌で描かれていました。『三番町萩原屋の美人』辺りを読んだ気がします。
他に有名どころだと緑川ゆきさんの『夏目友人帳』とか。これはアニメにもなりましたよね。緑川さんの漫画はその前から「LaLa DX」等で読み切りを追っていました。
だんだん読むものがなくなってくると、次第にBLを読むことが増えたんです。そこで面白いものを描かれていた方はやっぱり、どんどんメジャーになっていきました。今も第一線で活躍されているよしながふみさんとかヤマシタトモコさんは、その頃からめちゃめちゃ面白い漫画を描かれていました。

――ブックオフとはいえ書籍代も結構かかったのでないですか。

野﨑:アルバイトも少しはやったんですけれど、それこそ『小説』の内海修司と同じなんですが、バイトを増やして本を買いに行く時間が減るのは本末転倒で、それだったら食費を減らしたほうがいいなと思っていました。一応仕送りをもらえていたので、その中で食べる分のお金を確保してから本を買って、欲しい本があると食べる分がちょっとずつ減っていって...。ご飯を抜いて本を買っている時期もあり、わりとガリガリで過ごしていた気がします。

――蔵書の量も大変なことになりそうですが。

野﨑:それは近隣20軒のブックオフがすべて解決してくれました。川の流れのように買って読んでは売るという。移動が主に自転車だったこともあり、自転車に積める分が溜まったら売りに行っていました。それでも売りに行くのが面倒くさいんでどんどん溜まっちゃうんですけれど。

――さきほどSFも読んでいたとおっしゃっていましたが、具体的にはどんな作品ですか。

野﨑:そんなにマニアックなものは読んでこなかったです。瀬名秀明さんのSF系の作品とか、海外ではグレッグ・イーガンとか、J・P・ホーガンといったメジャーなところを、なんとなく押さえておこうかなという感じで。どれもそれなりに面白く読んだんですけれど、作家読みするには至らないものも結構ありました。ミステリでも、アガサ・クリスティーなんかは1冊読んでそれきりだったと思います。

――ミステリは、キャラクターで読ませるものとかロジカルなトリックのものとか、どういうものがお好きだったのでしょうか。

野﨑:キャラクターもののほうが好きではありますよね。新本格でもキャラに癖があるほうが好きでした。ただ、キャラもののミステリは好きではあったんですけれど、ライトノベルはそんなに多く読んでいなくて、流行ったものをちらっと読んでいるくらい。ラノベまでいくとミステリ部分よりもキャラが前面に出過ぎているものが多い気がしたんです。電撃文庫のうえお久光さんの作品はそのバランスが自分にちょうどよくて読んでいました。『悪魔のミカタ』とか。

――ご自身で創作はされていなかったのですか。

野﨑:その頃始めました。大学の頃に、インターネットで誰でもホームページを作れる、みたいな流れになってきたんです。日記だけ書く人もいましたが、自分はオタク趣味だったのもあって絵でも描いてみようかなと思い、へたくそな落書きから始めました。やってみればそれなりに上手くなるもので、デ・ジ・キャラットなどを描くようになって。黎明期で、なんだったら全員のホームページを回れる時代だったので、へたくそだろうがなんだろうか何か載せれば人が来てくれる時期でもあったんです。小さなコミュニティで楽しく描いていました。お絵描き掲示板なんかでイラストを描いているうちに、同人誌の文化が隆盛してきたのでコミックマーケットにも出るようになりました。

――イラスト集を出していたのですか。

野﨑:最初は二次創作の漫画を描いていました。ずっとデジタルで描いていたんですけれど、Flashという動画を作れるツールが流行り出したので、それを使って作っていた時期もありました。パロディと並行してオリジナル作品も作りました。、コミケにもFlashで作ったものをCDにして持っていっていました。

――そういうのって、どういう動画なんですか。

野﨑:ゲームみたいにテキストメッセージが出てしゃべったりとか。一発ネタで終わるものも多くて、どちらかというと小説というよりコントの台本に近かった気がします。掛け合いがあってギャグがあって、みたいな。
本当に趣味で発表しているだけの時期でしたが、時間はたくさんあったのでそれこそ毎日更新もできちゃうんですよね。そうするとアクセス数もすごく伸びるし、レスポンスも沢山もらえます。その繰り返しは物を作る上でものすごく役立った気がします。言葉選びなんかも気を使うようになりました。笑ってもらえるように、ちゃんとギャグが伝わるようにと結構深く考えてからテキストをアップロードしていました。

――その頃には、獣医さんになりたいという気持ちは薄れていたのでしょうか。

野﨑:4年か5年の頃には、これは少し違うのかな......と思っていました。

小説を書いたきっかけ

――卒業後はどうしようと思っていたのですか。

野﨑:ライフプランとしては非常によろしくないんですけれど、コミックマーケットに出てそれなりに人気になってくると、食べられないことはない、みたいな感じになっちゃったんですよ。学生の頃はバイトするより全然実入りがよくて、それをやっていければブックオフにも行けるという素晴らしい循環となっていました。
なので、卒業後も2年くらいは同人誌で食べていました。そんなに贅沢ができるほどではないし、コミケでマンションを買ったみたいな作家さんには全く及ばないんですけれど、一人暮らしなら全然食べていけました。
コミケでもっと売れることを目指す手もあったと思うんですけれど、でもまあちゃんとした仕事に就くべきじゃないだろうか......という不安もあったので、2年くらいで一回足抜けして、それなりに働きはじめました。

――読書はずっと続けていたのですか。

野﨑:やはり物を作る時間が圧迫してくると必然的に摂取の時間が減ってきました。作るのも読むのも自分にとってはどちらも娯楽ではあるので、ずっと遊び続けていたのは間違いないんですけれど、割合は変わりました。
大学を卒業して、同人で食べている2年間は本当に完全なる自由、みたいな感じで、作っていない時間は読んで、あとは死なない程度にご飯を食べていればいい、みたいな。またその頃になると漫画喫茶がインフラとして整ってくるんですよね。2005年とか6年あたりですね。いろんなところに漫画喫茶ができて、ブックオフで買うよりも読書効率がものすごくよくなるんです。1000円払うと100冊読めるし、家に置いておかずに済むし読んだ後売りに行かないでいいしとなるともう、むさぼるように漫画を読めてしまいます。小説は買わないといけないものも結構ありましたが、それはそれでアパートでゴロゴロしながら読んでいればいいし。幸せの時期であったと思います。

――読むものに何か変化はありましたか。

野﨑:読むものの趣味はそんなに変わっていない気がします。ただ、哲学書や心理学の本に試しに触れてみたら面白かったので、それらを読んでいた時期があります。25、6歳の頃だったかな。難解だし疲れるので途中で止めるんですけれど、相当暇になるとまた読んで。
フロイトとかユングといった基礎的なところ、メジャーどころを押さえていくところから入りました。哲学もアリストテレスとかから始めて、ジャック・ラカンとかも多少読みました。ラカンは、ある程度理解したふりをしないと1ページも進まないから1回ざっと最後まで読んで全体の色彩を認識したほうがいい、と分かりました。ひとつひとつの概念を完全に把握するのは素人読みでは難しいなと......。その後も、たまにそういう分野に手を出してみるんですが、当たりを引くといい感じに発想が広がりました。

――小説を書き始めたのはどういうきっかけだったのですか。

野﨑:働いてはいたんですが、このままでは経済的に厳しいとなったことがきっかけでした。その頃にたまたまの流れもありました。毎年集まっているコミケの頃からの友達勢5人くらいと飲んでいる時に、「みんなで小説でも書こうよ」という話になり、その友達間では「ラノベがいちばん売れる」という固定観念があったので「電撃大賞がいい」となって。「よし、ラノベ書いて来年は電撃大賞に出そうぜ」と言っていたのに、結局僕しか応募していなかったんですけれど。
それと同時期に、母がガガガ文庫の賞に応募していたこともあり、その影響もあります。

――お母さんがガガガ文庫って、どういうことですか。

野﨑:僕が住んでいたアパートに突然実家から封筒が届いて、開けてみたらプリントアウトされた原稿だったんです。「これなんなの」と親に電話したら、「ラノベを書いてガガガ文庫ってところに送ったから」って。「なんでそれをうちに送ってくるんだ」と訊いたら、「おばちゃんが書いたと思われたらよくないかもしれないから、あんたの名前で送った」と。
その原稿を読んでみたんですけれど、それがまあステキな内容で...。海底に沈んだアトランティスの恐竜人類が放射能で攻撃してくるという話でした。それを他人の名義で送るわけですからすごく迷惑だなと思ったんですけれど、母でも書けるなら僕でも書けるだろうと思えたのが結構大きな転機でした。

――そして2009年、『[映]アムリタ』で電撃小説大賞のメディアワークス文庫賞を受賞してデビューされるという。

野﨑:デビュー作の『[映]アムリタ』がはじめて書いた小説だと言っているんですけれど、小学館のガガガ文庫の編集部だけは、前に自分たちが落とした原稿があるだろう、と思っているかもしれないです。

――『[映]アムリタ』が初めて書いた小説だったのですか。いきなり書けたんですか。

野﨑:締切が近かったので大急ぎで、ひと月くらいで書きました。西尾維新さんが好きだったので、最初に書いた小説は西尾さんの影響が色濃くあると思います。
書いてみたらそれなりに楽しくて、あとは通るも八卦通らぬも八卦でプロになれたらいいなと思って送りました。

――そしてプロになって。『[映]アムリタ』から始まる『舞面真面とお面の女』、『死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~』、『小説家の作り方』『パーフェクトフレンド』『2』は現在新装版が出ています。それぞれ単独でも楽しめますが、実はシリーズとなっている。それは最初から考えていたのですか。

野﨑:さすがに最初の1冊を出した時は全然考えていなくて。2冊目の頃にぼんやり考え始めて、4冊目くらいである程度明確にやっていこうかなと思いました。個別でも読めるように書いたつもりではあったので、最終的にシリーズにならなかったとしても黙っていれば誰にも何も言われないであろうし、損はないな、という感じでした。

――プロの作家となって以降の読書生活は。

野﨑:大学生時代とその後が恵まれてすぎていて、それ以降は仕事もしていたので時間が足りなくなりました。コミックマーケットにも出づらくなってしまいました。最近はあまり出られていないです。

――その後、日本SF大賞の候補となった『know』や、『バビロン』といったSFシリーズ、話題となった『タイタン』などを発表する一方で、テレビアニメ「正解するカド」のシリーズ構成と脚本、劇場アニメ「HELLO WORLD」の脚本と小説版を書かれたりもされていますね。

野﨑:やはり飽き症なので、黙々と本だけを書いて出していくことに耐えられないところがあります。作家をずっと普通にやっていくことに飽きてしまうんです。本を出すのが嫌いなわけではなくて、1回出したら別なことをしなければ、というところがあります。

――作品の巻末に参考文献がたくさん載っていたりしますが、毎回小説に取り組むたびに、いろんな文献にあたるんですか。

野﨑:他の人のほうがもっと調べて書いている気もします。自分はどうしても飽き症なのが出てしまって、本当に必要なことしか調べられないです。

――参考文献は、どうやって探していますか。

野﨑:図書館でキーワードを検索にかけて、回れる図書館の中で当たりっぽいと思えた本を抜いていく感じですね。最近は図書館横断検索といったものもあって助かっています。
自分の手に取れる範囲の中で選んでいるので、当たれていない文献もたくさんあると思います。それでもやっぱり、『小説』を書く時に当たったトールキンの『ファンタジーの世界 妖精物語について』のような、重要そうなものは古本屋を回ったり通販で買ったりすることもあります。
その本が参考になるかどうかは結構こっちの心持ちの次第でもあるので、自分が当たりだと思える引きができるかですね。

『小説』のきっかけとなった一冊

――新作の『小説』のテーマは小説ですが、書く側ではなく読む側がメインの話です。読書に魅了された内海修司は小学生時代に外崎真という読書仲間を得、さらに学校の裏に住む小説家の髭先生の書庫への出入りも許されて本を読み漁る。その後外崎は小説を書き始めますが、内海は彼をサポートしながら読むことに没頭する。やがて、「読むだけじゃ駄目なのか」という疑問にとらわれて......。小説とはなにか、小説を読むとはどういうことかに迫る内容です。これはテイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』を読んだことがきっかけだったそうですね。お読みになったのはいつですか。

野﨑:読んだのは4年くらい前ですね。本を探す時に、著名な方のお薦めを頼りにすることがあるんです。立花隆さんとか養老孟司さんとか大森望さんとか。いっぱい読んでいる方って、ご自身の中に構築式があるので、その人を通して出てきた言葉はこちらも式を使う上で参考になるんです。この人がこういう調子で薦めるのものは名著なんだろうという気配を探るなかで、立花さんが講義録か何でシャルダンに触れていて、そこで引用された文章がちょうど自分が求めている感じの言葉だったんです。じゃあシャルダンの『現象としての人間』からいっとくか、みたいな感じで読んでみたら大変いい感じに当たりで、これで一冊小説が書けるんじゃないかと思いました。

――お持ちの『現象としての人間』にはびっしりと付箋が貼られていますよね。

野﨑:ひとつの付箋で短篇が一篇書けそうです。内容はシンプルで、宇宙のことや人間のことが端的に書かれてあるんです。なので、この本をもとに、人間のやっていることに関してはなんでも書けると思いました。ただ、後半は精神的な話になっていくので、食べるとか作るといった物理的なことより、精神的なことをテーマにしたほうが書けると思い、小説をテーマにしました。

――幻想的、かつ壮大な展開になっていく『小説』ですが、先述の『竜馬がゆく』のほかに、『走れメロス』や『指輪物語』といった実在の作品や、小泉八雲やイェイツ、さまざまな現代作家の名前も出てきます。こうした作家、作品はご自身の読書遍歴と関係はあるのですか。

野﨑:なくはない、くらいです。今回書くにあたって、そういえば読んだ、という程度のものを掘り起こした感じです。イェイツの『春の心臓』は芥川龍之介を読んだ頃に、芥川が訳したということで読んでいました。長い作品は読んでいなかったんですが、今回全集を買って読んでみたら、やっぱり面白いですね。

――小泉八雲と妻のセツが独自の文字を使っていたというエピソードも面白かったです。それは事実ですが、作中のその文字がオガム文字に似ていた、というのは野﨑さんのフィクションだそうですね。随所にそうした遊び心がありますよね。何か所か出てくる、意味不明なひらがなの並びの会話文も、実は解読できると聞いて考えてみたら、案外すぐ分かりました(笑)。本筋とはまた違うサイドエピソードも面白かったし、『小説』自体が小説を読む楽しみを体感させてくれる本でした。

野﨑:読者の皆さんへの信頼みたいなものがありました。いつもだったらもうちょっと、この謎が解けるようにとか、このエピソードの意味が分かるようにと考えるんですけれど、今回はもうそういうものは別にいいじゃないか、というのがあって。調べた人が楽しめばいいし、調べなくても分からないなりに面白く読めればいいじゃないか、と思いながら書きました。

――単行本は、最後の一行だけが最終ページにくるように調整されたそうですね。

野﨑:やっぱり、最後はなんか、格好よくしたかったので。

――格好よかったです。野﨑さんは覆面作家ですが、『小説』のサイン会を行ったそうですね。、顔が隠れる鬘をかぶって、髭先生のようないで立ちで登場されたとか。この記事の著者近影が、その時のお姿だそうですね(笑)。

野﨑:顔を出さないようにするにはどうしたらいいのかとamazonで被り物を探し、自分で電気工作をして目が光る装置もつけました。オンラインイベントでは髭先生のアバターも作りました。
そういうことをやろうとすると時間が足りなくて、仕事をしている場合ではなくなって...。小説を書くのと髭先生を作るのと漫画や小説を読むのとが自分の中ではシームレスになっています。

――『現象としての人間』のように、たまたま読んでみて当たりだった本って、他にありますか。

野﨑:そういうレベルで衝撃的な本というと、それこそ先ほど挙げたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』とか、ダーウィンの『進化論』とか。生き方のポリシーに影響を与えるくらいの本でないとそこまでガーンとはこないので、人生で2冊とか3冊という感じになっちゃいますね。

――『利己的な遺伝子』はやはり、衝撃的でしたか。

野﨑:こんなに人間のことをおろそかにしていいんだ、と思いました。人間が特別だとかいったことは一切なく、人間は遺伝子の乗物であるという捉え方は爽快でした。視界がクリアになった気がします。
シャルダンも同じで、ひとつのことを科学的に考察するとすごくクリアになるなと思ったんです。小さい頃から読んでいたいしいひさいちさんも人間とか社会とか心というものに対してすごくフラットさがあると感じていたので、自分は人文的なものよりもサイエンス的なもののほうが基底にある気がします。

――ご自身の小説にもそういう生命観、人間観は現れていると感じますか。

野﨑:手癖で書くとそうなっちゃいますね。人間の感情やドラマに寄り添っていこうとしたら、もっとフィクショナルなエモーションを書かないといけないと思いますし、今後そういうものを書く必要とか機会に恵まれるのだとしたら、改めて勉強しなきゃいけないと思います。
『小説』でいただいた感想の一つで、「外崎が内海を救うために小説を書いたわけじゃなくて、書きたくて書いたところが野﨑さんらしい」と言われたんです。確かに内海を救うために書いたほうが感動的かもしれないと思いました。でも、作家は勝手に書くもので、読者も勝手に読むもので、人を救うために書くものじゃない、という感覚が自分の根底にあるので、自分の筆致となるとこの書きぶりになるのかなと思います。

――野﨑さんは小説執筆以外のお仕事もされていますが、執筆されている時の1日のサイクルってどんな感じですか。

野﨑:書いている時は、だいたい朝9時頃から近所のコワーキングスペースに行って、夕方の4時とか5時くらいまで書き、帰ってきてから家のことをして、夜にまたちょっと書く感じです。そのコワーキングスペースの隣に図書館があるので、図書館で調べてはコワーキングスペースで書いて、というのを繰り返しています。

――次の作品のご予定などはありますか。

野﨑:この間担当編集者と打ち合わせはしたんですが、あんまり進んでいない状態です。思いついてから時間があくと飽きてしまうんですが、かといって「書けたら面白そう」くらいの段階で見切り発車すると「やっぱり面白くなかった」と止めてしまうこともあるので...。もうちょっと頭の中で面白くなったところでスタートしたほうがよさそうだな、と思っているところです。もうちょっとかかりそうです。大変申し訳ありません。

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