1. HOME
  2. インタビュー
  3. 作家の読書道
  4. 城山真一さんの読んできた本たち 裏切り・下克上…プロレスの物語性に魅せられた小学生時代(前編)

城山真一さんの読んできた本たち 裏切り・下克上…プロレスの物語性に魅せられた小学生時代(前編)

「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

3つの読書の記憶

――いつもいちばん古い読書の記憶からおうかがいしております。

城山:その質問を受けると思っていろいろ思い返していたんですけれど、小学校低学年の頃の記憶が3つほどあって、どれがいちばん古いのか分からないので3つともお話ししますね。
 まず、古い日本文学全集の『芥川龍之介集』。これは父の本棚にありました。僕の父は高校を卒業してから石川県を離れて、10年間ほど東京で仕事をしていて、28歳の時に石川県に戻ってきたんです。東京にいた頃にその日本文学全集を買って読んでいたらしいのですが、石川に戻る時に荷物が多かったので、いちばん好きだった『芥川龍之介集』だけ持って帰ってきたんです。父は全然本を読むようなタイプには見えなくて、そんな父が唯一東京から持って帰ってきた『芥川龍之介集』とはどんな本はなんだろうと興味がわいて。本棚から引っ張り出してページを開いてみたら、小学生でも読める文体で内容もおとぎ話に近いような話でしたので、すぐに引き込まれました。印象に残っているのは、「杜子春」と「蜘蛛の糸」。最初は童話として読んでいたんですが、人間のエゴを書いているようなところはインパクトがあって面白いなと。なかでも「杜子春」のオチは印象に残っています。仙人の弟子になろうとした杜子春が、いろんな試練にあう間、口をきいてはいけないと言われて、でも最後に親が殺されそうになって声を出すんですよね。すると仙人が「お前が黙っていたら殺すつもりだった」と言うところ。じゃあ仙人ははじめから弟子にするつもりなんてなかったってことなのか、と思って。それが引っかかる部分でもあり、面白いなと思ったところでもありました。

――2つめはなんでしょう。

城山:「コロコロコミック」です。僕、当時の「コロコロコミック」をまだ持っていまして(と、モニター越しに見せる)。

――めちゃくちゃ綺麗に保管されてますね!

城山:いまも大事な宝物です。当時の漫画で好きだったのは『ゲームセンターあらし』『怪物くん』『プロゴルファー猿』......。僕はわりと絵や漫画を描くのが好きで、「コロコロコミック」を見て、キャラクターはそのままに自分で新しい話を作って漫画を描いていた記憶があります。
 「コロコロコミック」以外では、『ブラック・ジャック』『まことちゃん』。『ブラック・ジャック』は少年漫画のはずなのにどこか大人向きで絵の禍々しい雰囲気にも惹かれて。『まことちゃん』はあの絵のタッチの怪しい感じが好きでした。あとは漫画なら『タッチ』や『銀河鉄道999』も好きでしたね。

――城山さんの『このミステリーがすごい!』大賞の大賞受賞作『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』では、主人公が投資の黒女神から『ブラック・ジャック』のピノコをもじって「ピノ太」と呼ばれますよね。やはり『ブラック・ジャック』はお好きだったんですね。

城山:そう言われれば、書いている時に潜在的な何かが出てきたのかもしれません(笑)。あと漫画でいうと、『プロレススーパースター列伝』は全17巻、今でも持っています。

――プロレスがお好きだったんですか。

城山:そうなんです。それが3つ目の本の話に繋がるんですが、「月刊ビッグレスラー」というプロレス雑誌があって、これがもう小学生の頃から大好きで。熱中して読み、バックナンバーも注文して取り寄せていました。新日本プロレスの大ファンで、長州力と藤波辰爾の「名勝負数え唄」とか、初代タイガーマスクの「四次元殺法」にハマって。この雑誌はグラビア部分だけじゃなくて、記者のコラムも熟読していました。

――テレビでプロレス中継も見ていたのですか。

城山:週1回の新日本プロレスの中継が楽しみで、古舘伊知郎さんの実況をよく真似してました。それで今思い出しましたが、架空の試合を自分で組んで、古舘さんの実況を真似た小説っぽいものを書いていた記憶があります。
 当時は新日本プロレスと全日本プロレスがあったんですが、なぜ新日本プロレスが好きだったのかというと、裏切りとか下剋上とか、いろんなストーリーがあったんです。僕は試合そのものよりも、今週は何が起きるんだろうっていう、物語性があるところをすごく楽しみにしていたように思います。
 僕の生まれ故郷は石川県の七尾市というところで、高校を卒業するまで住んでいました。住んでいる時は気づきませんでしたが、振り返れば娯楽が少ない町だったなと。民放のテレビ局はTBS系列とフジ系列の2局しかなくて、FMラジオはNHKしかない。なのでテレビばっかり見ていました。「8時だョ!全員集合」とか「クイズ100人に聞きました」とか。
 封切映画館もなくて、夏休みにはちょっと遅れて公開される「ゴジラ」とか「ウルトラ6兄弟vs怪獣軍団」とかを観ていました。

――小学生時代、他に小説は読みましたか。

城山:高学年の頃に夏休みの課題図書で『吾輩は猫である』とか、そういったものを読みましょうと言われるんですが、正直、僕にはちょっと難しくって。そういうこともあり、あまり自分から小説に手を伸ばすということはなかったですね。

――どんな子供だったと思いますか。

城山:子供が多い時代ですから集団で遊ぶことが多かったんですけれど、ガキ大将タイプではなくその他大勢でもなく、しいていえば、ガキ大将に唯一従わないタイプというか。たとえばガキ大将が「みんなであれをやろう」みたいなことを言っても、「俺はいいわ、ちょっと家帰って漫画読みたいし」なんてことを言う感じの子供でした。

中学時代にはまった作家

――中学時代の読書はいかがですか。

城山:小説と漫画ですね。先に漫画の話をすると、当時は「少年ジャンプ」が流行っていて、『ドラゴンボール』や『こち亀(こちら葛飾区亀有公園前派出所)』あたりはコミックを揃えていました。
 ただ、僕の性格で、みんなが「ジャンプ」「ジャンプ」と言っていると、じゃあ俺は「サンデー」を読もう、みたいなところがあって。それで読んだ『TO-Y』とか、あだち充さんの『ラフ』なんかはよく憶えています。

――では、小説は。

城山:中学2年の夏休みに入る手前で、当時読んでいた学習雑誌に、赤川次郎さんの『赤いこうもり傘』がお薦め作品として載っていたんです。"伯爵"といったキャラクターやストーリー展開がとにかくおしゃれで軽妙で、小説ってこんなに面白いのかとはじめて感じたのが赤川次郎さんでした。それをきっかけに、赤川さんの『殺人はそよ風のように』と『ひまつぶしの殺人』を立て続けに読んで、その後、コバルト文庫の吸血鬼シリーズを読みました。
 そこから別の作家のコバルト文庫も読むようになり、氷室冴子さんの『なんて素敵にジャパネスク』と『ざ・ちぇんじ!』は表紙が少女漫画っぽかったけれど読んでみたらひきこまれて。あと、氷室冴子さんといえば、なんといっても『恋する女たち』ですね。映画化されて、表紙が主演の斉藤由貴さんの全帯だったんです。書店で平積みされていて、なんか斬新だなと印象に残っていました。あれから40年近くたって『看守の流儀』がドラマ化された時に、全帯巻き直しで竹内涼真さんの敬礼している姿が表紙になって、その時に『恋する女たち』の表紙を思い出して、ちょっと嬉しかったです。
 斉藤さんつながりでお話ししますと、当時、ドラマの「スケバン刑事」も大好きで。実は2代目スケバン刑事の南野陽子さんの大ファンでした(笑)。「ザ・ベストテン」で南野さんの「話しかけたかった」が1位を取って、階段から降りてきた南野さんが泣いているのを見て、自分ももらい泣きしそうになりました。
 あとテレビでいうと、古谷一行さんの金田一耕助シリーズのドラマが楽しみでしたし、時々放送される石坂浩二さんの金田一耕助シリーズの映画も好きで、家族みんなで見ていました。

――国語の授業は好きでしたか。

城山:中学校の国語の教科書に中島敦の『山月記』が載っていたんです。先生がこの物語の続きを書いてみましょうと言って、僕の書いたものがいちばん面白かったと言われ、みんなの前で朗読したことを今回思い出しました。虎になってしまった人が、大雨が降りしきる中で自らの頭を竹に打ち続けながら泣いているうちに意識を失って、また別の生き物に魂が乗り移った、というような話を書いた記憶があります。

――文章を書くことはお好きだったのですか。

城山:ストーリーを考えるのか好きだったんだと思います。当時は作家ではなく、漫画家になれたらいいなくらいは思っていました。

――絵は得意だったのですか。

城山:わりと得意なほうだったと思っています。いたずら描きも得意で、これは高校の時なんですけれど、授業中に教科書の隅っこに先生の似顔絵を描いて隣の生徒に回したりして。隣の子が赤い顔をして笑いをこらえているのを見るのが楽しくて。今でも友達には、本当によくおかしな絵を描いていたよなと言われます。

――他に好きだったものはありますか、音楽とか。

城山:僕はBOØWYと氷室京介さんが好きでした。僕の10代後半は赤川次郎と長州力と氷室京介で成り立っていたと言ってもいいくらいです。BOØWYの「JUST A HERO」という4枚目のアルバムが本当に好きで、今も部屋にレコードジャケットを飾ってあります。氷室さんはご先祖が石川県にご縁があるとかで、ニューアルバムが出るとたいてい石川県でライブがあったので、必ず観に行っていました。

――ご自身でなにか音楽をやろうとは思わなかったのですか。

城山:歌は苦手で、ギターは大学まではエレキギターを1本持っていてちょっとやってみたこともありますが、1、2曲弾けたくらいで、もうやっていないです。僕はあまり集団でなにかをやるということに向かないようで、バンドも大学生の頃にやろうと思ったことはあったんですが、すぐに挫折しました。

高校時代にはまった漫画

――では、高校時代はいかがでしたか。

城山:中高と部活は一応ソフトテニスをやっていたんですけれど、打ち込んだわけではなく、だいたい学校帰りは書店に入り浸っていました。相変わらずテレビは民放2局でFMもNHKしかない状態でしたが、やっぱり知識欲や好奇心はあるので、それを満たしてくれる書店やレコードショップの存在は大きかったですね。
 お小遣いに限りはあるので立ち読みすることもありましたけれど、高校の時も「ジャンプ」と「サンデー」は読んでいました。高校の時に読んだ漫画でいちばん印象深かったのは、中央公論社が出していた藤子不二雄の『まんが道』で、分厚い辞書みたいな愛蔵版でした。それを読んだのをきっかけに、『藤子不二雄SF全短篇』全3巻も読みました。1巻は『カンビュセスの籤』で、2巻が『みどりの守り神』で......。これも手元にあるんですよ。どれもブラックな話ばかりで、ミステリー要素もあったりして。『ドラえもん』などの子供向け漫画を描いている巨匠のイメージが全然なく、ややもすると手塚治虫さんよりもディープな感じがありました。これは繰り返して読みました。
 他にこの頃で印象に残った漫画は、『めぞん一刻』『冬物語』『ろくでなしBLUES』『湘南爆走族』。このあたりが好きでした。
 小説でいうと、高校に入っても赤川次郎さんはずっと好きで、いろんな作品を読んでいました。特に印象に残っているのは「三毛猫ホームズ」シリーズと、『ふたり』です。『ふたり』は中嶋朋子さんと石田ひかりさんで映画になっていて、映画も小説の世界観をちゃんと表現できていたのがすごいなと思って。あと、大林宣彦監督のエンドロールの歌がなんともいえない、いい雰囲気が出ていました。この映画は今でも時々観たくなります。それと、僕のなかで当時衝撃だったのは、『魔女たちのたそがれ』『魔女たちの長い眠り』という2作品です。これはホラーチックな終わり方で、そういう作品を読んだことがなかったので、この不穏な感じはすごいな、と印象に残りました。
 赤川次郎さんは6年前にKADOKAWAのパーティーでお会いした時に、20年前に発売された『ふたり』の単行本を持って行って、サインをいただきました。これは家宝といってもいいくらいの宝物で、作家になってよかったことのベスト3に入ります(笑)。今も部屋に飾ってあります。
 赤川次郎さんには読むほうだけでなく、書くほうでも御縁があるんです。高校生だった当時、学研主催のコース文学賞という高校生を対象にした小説のコンテストがあって、赤川次郎さんが審査員だったんです。高校2年生の時にはじめて書いた小説を応募したら、なんと特選をいただいて。自分が中学生の時に読書に目覚めるきっかけとなった赤川次郎さんが審査員の賞で入選したことが本当に嬉しかったですね。特選を取った人は何人かいて、たしか高校3年生の時にそのメンバーでアンソロジーを作るという依頼がきたんですけれど、自分は大学進学を目指していて勉強しなくちゃいけなくて断ったんです。でも、自分はもしかしたら小説が書けるのかな、いつかタイミングがきたら小説を書こうと考えたのは、赤川次郎さんから賞をいただいたこの時でした。

――応募作は、どういう小説だったのですか。

城山:SFですね。藤子・F・不二雄さんの影響を受けたんじゃないかと思います。自分ならこんなことを思いつくぞ、みたいなことを書いたのは憶えています。

――ほかに、高校時代に読んだ本で印象に残っているものは。

城山:夏目漱石は昔の難しいザ・小説という印象で苦手に感じていたんですが、2年生の時に『こころ』を読んで、あ、これは違うなと思って。人間の純粋さがストレートに表現されていて、胸打たれるものがありました。『こころ』というタイトルも格好いいなと思いました。
 3年生になると、受験が迫ってきたので、本を読まない時期が長かったです。僕は地元の石川県にある金沢大学に進学したんですが、一次試験がセンター試験で、二次試験が記述だったんです。その二次の記述は英語と国語と数学のうちふたつを選択するシステムで、当時の担任だった国語の先生から、「あなたは国語の模擬試験で、時々突拍子もないことを解答に書いて点数を下げることがあるから、安定している英語と数学で受けなさい」と言われました。確かにその通りで、僕、国語のテストの点数がすごくいい時と悪い時があったんです。人と違う解釈をしていたんでしょうね。しかし、こんな人間が今は小説を書いているというのは、どうなんでしょう(笑)。
 3年生の頃は、あまり小説は読まなかったけれど、気分転換で音楽をよく聴いていました。氷室京介とかCOMPLEXとかZIGGYとか。二次試験の直前なんかは、朝の目覚まし代わりに徳永英明さんの「壊れかけのRadio」をよく聴いていました。歌詞がそのときの自分の年齢や置かれている状況と重なっているような気がして、すごく胸に沁みたのを覚えています。

大学時代の背伸びした読書

――大学は地元の大学に行こうと思われていたのですか。

城山:当時、'80年代から'90年代って子供がすごく多い時期で、うちの高校も半分以上は県外の大学に進学していましたけれど、自分はそこまでこだわりがなくて。むしろ小中学校の時にバス旅行で七尾から金沢に行くだけでも都会に行ったと感じていましたから、金沢に行けるだけで充分だったという。金沢の街の雰囲気も好きだったし、金沢大学に行ければいいなと思っていました。一人暮らしする予定でしたし。

――金沢での一人暮らしは楽しかったですか。

城山:もう、すごく楽しかったです。大学に入ると漫画はほとんど読まなくなりました。相変わらずプロレス雑誌は読み続けていましたが、「ビッグレスラー」が休刊になったので、「週刊ゴング」を読むようになって、これは40歳くらいまで読んでいました。あとは、大学に入ると女の子にモテたいなという思いもあって、「ホットドッグ・プレス」を読むようになりました。お気に入りの連載は北方謙三さんの人生相談コーナーでした。

――「試みの地平線」ですね。

城山:北方さんの回答がどれも斜め上からドカンとくるようなものばかりで、それを読むのが面白くて。
 小説は、大学に入ると格好つけていたこともあって、純文学に傾倒していた時期があります。興味があったからというよりも、大学生はこういうのを読まないといけないなと、少し背伸びをしていたというか。村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』とか、村上春樹さんの『ノルウェイの森』とか。安部公房さんの『砂の女』なんかは、読んでいるだけでまわりが砂っぽくなってくる感じがしましたね。遠藤周作さんの『沈黙』は、クライマックスに外国人が和装で登場するシーンがあって、それが衝撃的だった記憶があります。あとは、宮本輝さんの『錦繍』とか。古いものでいうと、谷崎潤一郎さんの『痴人の愛』『春琴抄』が印象深かったです。『痴人の愛』は主人公に変質的なところがあるんですけれど、読んでいるうちに「自分もこんな感じになるかもしれない」と思わせるところがすごいなと。『春琴抄』は主人公が自分で目を潰す描写がすごくリアルで。今ふと思いましたが、五感にすごく訴えてきた小説が記憶に残っている気はしますね。
 ただ、大学では勉強に力を入れていたので、そこまで小説はたくさん読んでいないと思います。
 それから20年後くらいになるんですけれど、角川文庫で『相続レストラン』という小説を出した時に、大学の民法の授業で得た知識が役立ちました。

――サークルは何か入ったのですか。

城山:大学の時は文科系サークルのESSという、英会話研究会に所属しまして。わりと真剣に活動していて、2年生の後期に部長も務めました。ESSにはディスカッションとかスピーチとかディベートとかドラマとかいろんなジャンルがあって、僕は一通りやったあと、ディベート一本に力を注ぎました。2年生の秋に大学対抗のディベート選手権で北信越地区の代表になって、全日本選手権にも出ました。
 英語といえば、大学3年生の夏休みに友達3人とロサンゼルスに行きました。2週間の滞在中、ずっとレンタカーを借りてモーテルを転々とする貧乏旅行でした。そのときは現地のアメリカ人と普通に話せましたけど、今は話す機会がないので、もう全く話せなくなりました。

――ディベートでは、どんなことがテーマになるのですか。

城山:脳死は人の死なのか、とか。ジャーナリストの立花隆さんの『脳死』や医療の専門書を自分で英訳して、英語で喋る訓練をしたりしていました。だからディベートをやっていると、変に偏ったカテゴリーだけ英語で話せる、みたいな感じになるんです。

――他にはまったものなどはありましたか。

城山:大学の頃、想像力をかき立てられて楽しみにしていたのは、小説よりもテレビドラマだったかなと思います。当時好きだったテレビドラマは、「もう誰も愛さない」「愛という名のもとに」「逢いたい時にあなたはいない」「素顔のままで」「パ★テ★オ」「高校教師」「若者のすべて」。映画は、洋画では「レインマン」「ゴースト/ニューヨークの幻」「ブラック・レイン」。ただ僕はわりと邦画も好きで、なかでも山田洋次監督がお気に入りです。山田洋次監督で西田敏行さんと裕木奈江さんが出ていた「学校」は映画館に観に行きました。この作品は今でも深く心に刻まれています。
 大学生の頃といえば、「月刊カドカワ」の1991年4月号が「総力特集 氷室京介」で、これも今も宝物として持っています。氷室京介さんのインタビューのなかに、BOØWY時代の4作目の「JUST A HERO」でやっとやりたいことができて、いろんな人が自分たちの音楽に興味を持ってくれて人生が変わった、ということが書いてあって。実は僕も、4作目の『看守の流儀』でやっと自分の書きたいものがちょっとずつ見えてきて、周りの人も僕のことを見てくれるようになったなと思っているので、このアルバムの隣に『看守の流儀』を置いています。ほかにも、そのインタビューの中で、氷室さんが『Higher Self』10曲目の「MOON」というバラードを録音した時に、何百回も歌い直したっていうようなことが書いてあって、びっくりして。あとから、小説も同じだなと思いましたね。自分もやっぱり納得いくまで推敲しないといけないなと思っています。それと、本では『BOØWY STORY 大きなビートの木の下で』も宝物として置いてあります。

――金沢でも書店に通っていたのですか。

城山:書店は大好きでした。金沢には、うつのみや書店という大きな書店がありまして、毎日のように通っていました。『ブラック・ヴィーナス』が出た時に、自分が通っていたその書店でサイン会をさせてもらえて、本当に嬉しかったです。

――大学生の頃は、小説家になりたいとはまだ思っていなかったのですか。

城山:先のことはわからないけれど、とりあえずは普通のサラリーマンになれればいいかなと思っていました。小説を書いて、それを生業にするなんて、そんな大それたことは考えていなかったです。

――では、卒業して、就職されて。

城山:20代で印象深かったことはふたつあります。ひとつはアマチュア劇団に入って役者をやったこと。もうひとつは、6回引っ越ししたことです。
 もともと大学に入った時に、劇団に入るかESSに入るか迷った末にESSを選んだんです。社会人になってから、やっぱり一回は役者をやってみたいなと思って。金沢にはアマチュア劇団がいくつかあったので、いろいろ調べてそのなかのひとつに所属しました。演劇集団キャラメルボックスの「銀河旋律」という戯曲を使わせていただいた時は主役もやりました。他に印象深かったのは、金沢に新しい劇場を作る際に杮落しで文学座が西川信廣さん演出でシェークスピアの「夏の夜の夢」をやることになり、地元俳優と共演するということでオーディションを受けたら合格してしまいまして。文学座のその公演に役者として舞台に立たせていただきました。でもそうした劇団活動から得たものは、自分は集団でものづくりをすることには向かないなということと、役者の才能はないなということでした。
 表現することは好きだけれど、もう劇団はいいかなという気持ちになりました。やっぱり集団活動には向いていないな、と思った時に、消去法的なんですけれど、小説だったら脚本、演出、役者、衣装道具、全部一人でやって誰にも文句言われないなあと思って。なにかを表現したいのだったら、あとは小説しかないなという、最後の選択肢をここで決めた時期でもあったかと思います。
 ただ、劇団活動が小説を書く上で役立った部分もあります。小説って、書いていると主人公の思いを中心に考えてしまうんですけれど、劇団だと端役にもいろんな人がいて、それぞれが自分の立ち位置とか、自分はどういう思いでここにいるかということを、みんなすごく真剣に考えているんです。なので僕は、小説を書く時も、出てくる場面は少ない人物でも、どういう思いで今この台詞を言っているのかなどを大事にしないといけないと、気にしています。

「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

後編はこちら

城山真一さんの読んできた本たち ペンネームの由来になった、本当に好きな2人の作家(後編)