「小さい頃、最もよく読み返した童話は何か」と問われたら、私は迷わず『いやいやえん』を挙げる。一九六〇年代に幼少期を送った者の実感として、当時この本を知らない子どもがいたらモグリだ、というくらいに人気の一冊だった。
舞台はちゅーりっぷほいくえん。主人公のしげるはかなりのやんちゃ者だ。友達を蹴る。約束を破る。駄々をこねると止まらない。一方で、怖いもの知らずの彼は異種との遭遇にも動じない。保育園を訪ねてきた小熊とすぐに打ち解け、悪い狼(おおかみ)を振りまわし、迷いこんだ森で出会った鬼とも笑い合う。入口も出口もなく、現実とファンタジーが地続きで融(と)け合う大(おお)らかな世界観がそこにはある。
子ども時代の私は、しかし、とびきり愉快な物語の陰に、底知れぬ怖さもまた感じていた。それがスパイスとなり、甘いとしょっぱいの無限ループのごとく、面白くて怖いこの本をめくる手が止まらなかった気がする。その怖さの源は、強いて言うならば、保育園のルールを超えたこの世の掟(おきて)のようなものだろうか。
「ちこちゃん」という一編がある。保育園の机にのって怒られたしげるは、「ちこちゃんがのったんだもの」と人のせいにする。「それでは、なんでもちこちゃんのすることをまねしなさい」。先生の言葉通り、以後、しげるは自らの意思に反して人まねをくりかえす羽目となる。ちこちゃんが人形を背負えば、しげるの背中にも人形が現れる、といった具合に。ついにしげるは泣きだしてしまう。
しげるの不品行は数あれど、彼が泣きを見るのはこの一編のみだ。故に最も怖い話でもあるのだが、今にして思えば、そこには彼の言いわけに対する作者の絶対的なNOがあったのかもしれない。生半可な説教を超越したそのマジな厭忌(えんき)が、昔の私を畏怖(いふ)せしめたのかもしれない。
世界が甘いだけではないことを、子どもだって知っている。だからこそ、楽しさの中にシビアさを秘めた本書は、今後も多くの読者を虜(とりこ)にし続けるにちがいない。(作家)
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子どもの本研究会編集、福音館書店・1430円。1962年初版発行。中川李枝子さんと妹の大村(山脇)百合子さんのコンビは『ぐりとぐら』『そらいろのたね』など多くの人気作を生んだ。=朝日新聞2025年4月5日掲載
