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昭和100年/戦後80年 憲法 普遍を瓦解させ、再構築する正義 江藤祥平

同性どうしの結婚を認めない法律は違憲と大阪高裁が判断し、報道陣を前に喜びを報告する原告団ら=3月25日、大阪市北区

 過去を記憶しない者は、過ちを繰り返す運命にある(哲学者ジョージ・サンタヤーナの言葉)。「新しい戦前」とも言われるいまだからこそ、戦後の原点に立ち還(かえ)る必要がある。そこで想(おも)い出されるのが、1954年刊行の尾高朝雄『国民主権と天皇制』(講談社学術文庫・1430円)である。

 法哲学者の尾高は、この本の中で、国民主権と天皇制をいかに調和させるかという問いに取り組んだ。国体は変わった。しかし、それによっても否定されることのない一貫した精神のつながりが、戦前と戦後の日本の間にはあるはずだと議論する。それを尾高はノモス(法の理念)と呼んだ。これに強く反発したのが、憲法学者の宮沢俊義である。宮沢は、ポツダム宣言の受諾により日本には「革命」が起きて、国民主権の国になったと考えた。これによると戦前と戦後は時間的に断絶している。

 論争は、宮沢の優勢に終わったと一般に見られている。新生日本を印象づけるには、戦前を断ち切る革命の図式の方が明らかに適していた。しかし、私は戦前と戦後を連続的に見る尾高の方に分があると見る。革命と言うと聞こえは良いが、戦前の日本国民の責任が有耶無耶(うやむや)になる。尾高は、ノモスという戦前と戦後で変わらぬ理念を想定することで、新しく主権者となった日本国民に責任の自覚を促していた。主権者であることの意味を嚙(か)み締める上で、尾高の主権論は必読である。

個人主義を確立

 その敗戦を10歳で迎えたのが、後に憲法学者となる樋口陽一である。戦時中に全体のために個人が犠牲を強いられる共同体の姿を目の当たりにした樋口にとっては、戦後日本で個人主義をいかに確立するかが課題であった。樋口陽一『近代国民国家の憲法構造 増補新装版』(東京大学出版会・3960円)は、その答えを、近代フランスの憲法構造に求めている。フランス革命の意義は、国民主権の成立により、中間団体から力ずくで個人を解放し、個人と国家の二極構造を徹底させたところにある。これを近代の典型と見る樋口からすれば、いまだに会社や地域といった社会的権力に個人を縛る日本社会は、国民主権としては不徹底ということになる。

自分が砕け散る

 このように、国民主権の意味を問う尾高と樋口の議論は今日でも魅力的だが、限界もある。竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波現代文庫・1782円)は、そのことを知るための格好の書である。日本におけるクィア理論(異性愛的でない人たちに向けられる差別語に肯定的な意味を与えていく思考)の先駆者として知られる文学研究者の竹村は、この本の中で、異性愛主義と性差別を両輪とする「正しいセクシュアリティ」の物語が、女か男か、同性愛か異性愛かを問わず、人々のセクシュアリティをいかに貶(おとし)めてきたかを暴き出している。この本を読むと、竹村自身がそうであったように、自分がいかに既存の言語に取り込まれていたかに気づかされ、「自分が粉々に砕ける」ような感覚に襲われる。

 尾高や樋口の議論に欠けていたのは、まさにこの自分が砕け散る感覚である。ノモスであれ個人であれ、その普遍的な理念がそれを演じる個別的文脈では必ず裏切られるという認識が両者には乏しい。大きな普遍的な物語の背後には、必ずそこからずれる個別の物語がある。このずれを、女を男のように、同性愛者を異性愛者のように扱うことで解消しては、旧来の普遍を再強化するだけである。そうではなく、そのずれを、旧来の普遍=「正常な私たち」を瓦解(がかい)させるものとみて、これを再構築する正義への訴えかけと受け止めることができるか。同性婚や夫婦別姓の是非が憲法問題として争われるいま、この点が主権者である国民には問われている。=朝日新聞2025年4月26日掲載