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鴻巣友季子の文学潮流(第25回) 米国と世界の混迷を、ティム・オブライエン「虚言の国」とユヴァク・ノア・ハラリ「NEXUS 情報の人類史」で読み解く

©GettyImages

虚無の人の暴走

 大国のトップのひと言で、株や為替が乱高下しているこの頃。アメリカの現状を強烈に風刺した小説が翻訳刊行された。『本当の戦争の話をしよう』で知られるティム・オブライエンの20年ぶりの長編『虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ』(村上春樹訳、ハーパーコリンズ・ジャパン)だ。

 暴走するロードトリップである。エルモア・レナードとコーエン兄弟がコラボレーションしたらこんな映画になるのでは、という米国での書評を引用すると雰囲気が伝わるだろうか?物語は2019年の8月、第1期トランプ政権の3年目、カリフォルニア州北部のフルダという小さな町に幕を開ける。これから数か月後に、世界は新型ウイルスのパンデミックに巻き込まれるが、いまこの国を席巻しているのは「ミソメイニア(虚言症)」という伝染病なのだった。

 主人公の大型スーパー店長ボイド・ハルヴァーソン自称49歳は、以前はロサンゼルス紙の「首都圏デスク」に在籍する敏腕ジャーナリストだったという。子どもの頃から「他人の生活をなめるように観察する訓練を積んできた」自分にとって、記者は天職だと思っていた。ところが、結婚に失敗し、ピューリツァー賞を目前で逃し、再婚し、香港に行き、ジャカルタに行き、ロサンゼルスにもどったところでキャリアは挫折。ボイドが仕事上で行った虚偽の数々を暴露した者がいたせいだ。

 フェイクニュース王に墜ちたボイドはJCペニーというチェーンストアに就職。そんなある日、町の地銀に強盗に入るのだ! 奪った金は8万1千ドル(自分の預金が7万2千ドルほどあったので、儲けは差し引き9千ドル弱)。ボイドは銀行窓口の小柄でおしゃべりなアンジー・ビングを人質に、車で逃走の旅に出る。それは、元義父ドゥ―ニーへの復讐の旅でもあった。事業での不正をボイドに暴かれるのを恐れて彼を潰したのは、この義父だったのだ。

 ボイドはBoydと綴るが、Void(真空、空疎)のほうが似合いかもしれない。子どもの頃から根っからの嘘つきであり(だからジャーナリストに適していた、というのはオブライエンの皮肉)、ついに人生を空っぽにしてしまった。なぜ銀行強盗をするのかと言っても理由はない。ほかにもっとましなことが思いつかなかったからだ。語り手はこうまとめる。

 これといった具体的将来もなく、思い出したくもない過去を抱えて、ボイドには失うべきものはほとんどなかった。あるいはより正確に言うなら、もう何ひとつ残されてはいなかった。

 ボイドは虚無の人であり、失うもののない「無敵の人」でもある。虚言癖を一つの才能として出世してきた男が虚偽を暴かれて失墜する。ところが、いつしかその国は「フェイクニュース」「オルタナティヴファクト」といった言葉が政府から発せられる「ミソメイニア(虚言症)」の国となり果てていたのだ。個人的な特性による世界観は排斥されたのに、それがいまは共同主観的な現実になっている。ボイドの虚脱、虚無感はそこにある。彼の暴走はある意味、免疫機構の暴走のようにも感じられた。

 本作はトール・テイル(tall tale:大ぼら話)であり、ケイパーストーリー(caper story:強盗や融解を犯罪者の側から描く)でもある。レナードとコーエン兄弟のコラボとも言えるが、私はハンター・トンプソンの『ラスベガスをやっつけろ』と『ハックルベリー・フィンの冒険』の亜種ハイブリッドというふうに感じた。

 ピカレスクロマンとも言える『ハックルベリー・フィンの冒険』と通底するところはとくに多い。でこぼこコンビで脱出と逃走を繰り返し、その行動の背景には父(義父)への反逆や復讐がある。そのふたりを、下手人や犯罪者やトリックスターたちが追いかけ、追いかけられて入り乱れる。そこに、オー・ヘンリーの「赤い酋長の身代金」や、それにもとづく小津安二郎のトーキー映画「突貫小僧」のような、誘拐犯のほうが人質にとっちめられるという古典的な逆転モチーフが織り交ぜられている。コミカルな展開の背景にアメリカ合衆国の構造が立ちあがってくる仕組みだ。

 ちなみに、村上春樹はティム・オブライエンとよほどウマが合うようで、「ねえ、ひとつ言っておくけど、あなたは大丈夫そうにはとても見えない。芽キャベツを食べる用意のできた人のように見える」など、村上自身が書いたとしか思えないセリフも多々あるのでお楽しみに。

エイリアン・インテリジェンスの脅威

 さて、なぜアメリカにこのような政権が二度も樹立されたのか。それ以前に、アメリカのみならずイギリスでも、人びとはなぜこんなに断絶を深めているのか。

 それを考えるヒントになる一冊が、宇野常寛『庭の話』(PLANETS)だ。グローバリズムのなかで社会が分断を露わにしている原因をAnywhereな人たちとSomewhereな人たちというディヴィッド・グッドハートの概念を引きつつ解説していて、じつにわかりやすい。

 参考になる強力な書物がもう一冊ある。ユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS 情報の人類史』(上下、柴田裕之訳、河出書房新社)だ。ネクサスとは「つながり」といった意味で、語学関係者には、主語と述語の関係を指す語として認識されているだろう。

 本書の上巻(第Ⅰ部)では、情報ネットワークとテクノロジーがいかに人類の社会を築き変化させてきたかを詳説する。紙、書物、印刷機、蒸気船、放送(ラジオ)といった新しい媒体や機械の登場により、人びとは分散型の情報ネットワークと中央集中型のそれを双方発達させ、分裂、対立させてきた。最古の情報テクノロジーとは「物語」であり、二番目は「文書」(文字とそれを書きつけて束ねる紙の発明)だ。これを整理し保管するために、「官僚制」というものが生まれた。

 しかし20世紀末から情報に大革命が起きている。インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディア、そして生成AIの登場である。これらによって、私たちの世界の対抗構図――民主主義体制と全体主義体制や、リベラル派と保守派――は今後一変する可能性および危険性があるとハラリは警鐘を鳴らしている。

 つまり、このまま行けばエイリアン・インテリジェンス(人間以外の異質な知性)、すなわちAIが自律的な知能を獲得し、人間を監視し支配しはじめるだろう。かつて鉄のカーテンが世界を仕切ったように、これからはシリコンのカーテンが世界を二つに分けていく(すでに分けられている)。

ネットワークを接着してきた情報

 今月はオブライエンの作と合わせて、『NEXUS』の上巻について扱いたい(下巻は来月)。
『虚言の国』のアメリカは爆発的に広がるミソメイニアという感染症のような「症状」に冒されている。フェイクやヘイトという”ウイルス”はなぜばら撒かれたのか。そこには、ニュースの電子化、ソーシャルメディアや匿名投稿プラットフォームとそのアルゴリズムが間違いなく関係している。

 では、どうしてそんな危険な拡散手段を人間は作りだし、世に放ったのだろう。ハラリによれば、それはネットワークの問題だ。自分の手に余る力を呼びだす傾向は「大勢で協力する」という人類独特の習性に由来する。

 ホモ・サピエンスは約7万年前に、異なる集団の相互協力というほかの動物にない能力を発揮しだした。それを可能にしたのが「物語」だ。脳構造の変化と言語能力のおかげで、「虚構の物語を語ったり信じたりし、そうした物語に深く心を動かされる能力を獲得したからのようだ」とハラリは言う。

 そしてこのネットワークを接着するのが「情報」なのだ。人類はそうして繋ぎあわせた虚構や空想、つまり物語を駆使して、大規模なネットワークを構築し維持してきた。

 しかし協働性のネットワークによって進化した種であるゆえに、そのネットワークとテクノロジーの力は無分別に使われやすいのである。

暴走する魔法使いの箒

 さて、人類は個人的な知己がなくても、同じ物語を共有していれば一つの共同体を形成できるようになった。それが理念、社会通念、イデオロギーなどと呼ばれるものだろう。そしてこれは、プラトンの言う「高貴な噓」と言われるものも生みだしてきた。共同体への忠誠や秩序を確保するための理想論だ。たとえば、アメリカは自由と平等と多様性の国である、とか……。

 しかし情報テクノロジーによって、「高貴な噓」のみならず、「宗教的な幻想やフェイクニュースや陰謀論」も高速で駆けめぐるようになったのだ。

 ここで、ハラリが引用するゲーテの寓話「魔法使いの弟子」を紹介しよう。年老いた魔法使いが若い弟子に雑務を任せて出かける。弟子は魔法の箒をこっそり使って水を汲んでこさせる。ところが、箒の止め方を知らなかったため、箒は延々と水を運んできて工房は水浸しに。弟子は魔法の箒を真っ二つにするが、2本に増えた箒がますます水をあふれさせた。弟子は「霊を呼び出したところまではよかったのですが、去らせることができません」と、帰ってきた魔法使いに泣きつく。

 まさにこれと同じことがいま起きているのではないか。人びとはソーシャルメディアに夢中になって承認欲求を肥大させ、そのなかで誹謗中傷が飛び交い、不正な選挙活動が行われるまでになっている。ランプから呼びだされたジン(精霊)は元には戻らない。ゲーテの寓話の教訓は「自分が制御できない力はけっして呼び出すな」ということだとハラリは言う。

 ちなみに、ハラリによれば、「意図せざる結果を伴う強力なものを生み出す傾向の始まりは、蒸気期間の発明でもAIの発明でもなく、宗教の発明だった」と。中世を迎える頃には神の言葉そのものではなく聖書を解釈する聖職者と教会が正当性を主張し、絶対的権威を打ち立てていた。

 こうした「不可謬性」を誇る絶対的権威の問題点は「自己修正メカニズム」が機能しないことだ(日本の内外にもこのメカニズムがバグっている政治家が時々いるようだが)。カトリック教会は、聖書原典が不可謬なのだからそれを解く聖職者も同様だと言い通そうとしたが、やがてほころびが生まれた。

 それが宗教改革だ。改革者たちは、聖典を解釈する権威者をむしろ間に挟まず、聖書に(翻訳を通して)自分で触れ、神の言葉との直接のつながりを取り戻そうとしたのだ。修正は教会の外部から訪れた。

分散型情報ネットワークの未来は

 言い換えれば、独裁主義体制(ときに全体主義体制)というのはこの自己修正メカニズムを欠いた中央集中型の情報ネットワークであり、民主主義大切は真っ当な自己修正メカニズムをもつ分散型の情報ネットワークということになる。

 情報テクノロジーはその使い方によって、全体主義を促進することもあれば、民主主義を推進することもあるというのがハラリのまとめだ。20世紀の末にインターネットを手に入れ、個人で「発信」ということを始めた私たちは、次の世紀は分散型の情報ネットワークとそれに伴う民主主義の勝利が訪れると、わりとナイーヴに信じていた。ハラリはこれをthe naïve vision of information(情報への無邪気な見解)と呼んでいる。このnaïveという語には「ポジティヴな」あるいは「おめでたい」といったニュアンスも感じられる。

 では、来月は『NEXUS 人類の情報史』の下巻(第Ⅱ部、第Ⅲ部)も読んでいきたいと思う。AIはこれから実際にどんな行動を起こし、人類はどんな脅威に直面するのかを論じている。ホモ・サピエンス(賢い人の意)の終わりは来るのだろうか?