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「朝のピアノ」書評 生の根源的な儚さと確かさ現す

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年05月10日
朝のピアノ 或る美学者の『愛と生の日記』 著者:キム・ジニョン 出版社:CCCメディアハウス ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784484221274
発売⽇: 2025/03/28
サイズ: 18×1.6cm/272p

「朝のピアノ」 [著]キム・ジニョン

 人生の終わりが近づいてきたそのとき、私にはどんな言葉が残されているだろうか。どのような新しい言葉が、自分と世界との感応の中から生まれてくるのだろう。著者が死の三日前まで書きつづけた日記を元にした本書には、そのひとつの形が示されている。
 思うようにならない身体と揺らぎ惑う心、思索しつづける精神。その絡み合いの中で、耐えがたい不調や痛みに苛(さいな)まれながらも自分の裡(うち)に静かな錘(おもり)を保とうとするとき、支えになるのは静謐(せいひつ)な言葉と、それらの醸しだすイメージなのだろう。
 ときに親しみ深く、ときに謎めいた断章の中に、いつか自分が病に臥(ふ)したとき、啓示のように思いだされる言葉がきっとある。それらは、弱りゆく心身に灯(あか)りをともすための確かな力として選ばれ、道標のように記された言葉たちだ。
 幼い日に母の傍(そば)で夢みた景色と、いま自分を取り巻いている世界に満ちている水音や木漏れ日、人々のさざめきが重なりあう。自分の生そのものが、絶え間なく流れゆく時のほんの一瞬、無限と無限の間に差し挟まれた祝福の時間として、仄(ほの)かに輝いていることが理解される。病を得た人は、いや誰もが、そのような生の根源的な儚(はかな)さと存在の確かさを具現している。
 儚くも確かな自分の存在を支えているのは、身近にあるささやかなもの、そばにいてくれる誰か、ふと目にとまる何気ない風景だ。当たり前の日常にすぎないそれらのものたちが、だからこそ滋味深く、別れがたく、けれど遠ざかりゆくものとして描かれる。
 本書に残された言葉から立ちのぼる気配を、その行間に込められたメッセージを、遺(のこ)された人たちはどんな風に感じとるのだろうか。それは最後に近づくほどに、静かに耳の奥に響く別れの言葉、清澄な愛の言葉だ。そして、深々と息をつき、ゆっくりと目を閉じるような、最後の一行。生の最後の旅路を、このように歩める人は幸いなるかな。
    ◇
Jinyoung Kim 哲学者、美学者。アドルノ、ベンヤミン、ロラン・バルトらを学び、新聞雑誌にコラムを寄稿。