
なぜ言葉はわたしを養うのか
――『養生する言葉』は岩川さん自身が、自らの生や養生と向き合われた一冊です。この「養生」という言葉は、どのようにして浮かび上がったのでしょうか。
私はずっと、0か100かの人間でした。自分についた病名だけで自分を理解した気になって、自分をいたわることがまったくできていなかったんです。
たとえば、夜に眠れないときはすぐに薬に頼る。薬をちゃんと飲むことは本当に大事なんですが、ホットミルクを飲むとか、部屋を暗くして体操をするとか、そういう0と100の間、治療と養生の間にあるはずの微細な調整の感覚が、自分の中にはありませんでした。
そんなときに精神科医の神田橋條治さんの『心身養生のコツ』(岩崎学術出版社)を読んで、「養生」とは「生を養う」ことなのだという概念に出合って、「0か100かじゃないんだ」「もっとのびのびと自分をときほぐしていいのかもしれない」とようやく思えるようになったんですね。

――「養生」は「生を養う」こと。「ご自愛」と違って具体的に行動を考えられますね。
物語や言葉には力があります。フィクションであっても、そこに描かれているキャラクターによって、自分の心が支えられる。自分自身と出会い直せる。そういう回路が自分の中にできていくような経験をしてきた人は多いはずです。小説や漫画、アニメ、ゲーム、映画、ドラマなどが好きな人はそう感じることも多くあるのではないでしょうか。
私の専攻は現代日本文学やトラウマ研究ですから、現実の人間関係だけでなく、そうした物語やキャラクターとの出会いによっても「生を養っていける」ことを伝えてみたかった。それが今回のエッセイにつながりました。
――「私はいつも死にたかった。だから、生きるために必要な言葉を探し続けてきた」から始まる本書は、12歳のときに受けた性暴力、戸籍上の名前を変えたこと、いないことにされてしまうトランスジェンダーとしての苦しみについても書かれています。
自分が養生していく過程をあえて個の体験に引き寄せたのは、他者が読んだときに、私がどのような過程を経て「養生」に行き着いたのかがわかる書き方にしたかったからです。
事物を対象化して分析する批評ではなく、自分が生きてきたこと全部を賭けて、経験と物語が響き合うようなものを書いてみたかった。
だから、物語に勇気をもらいながら「書けるところまで書いていこう」という気持ちで書き進めていきました。書いて、読んで、言葉に勇気をもらってまた書く。その循環をずっと続けてきたように思います。
『養生する言葉』は文芸誌の「群像」で1年間連載したエッセイをまとめたものですが、最初の3回までは苦しかったですね。なぜ私は「養生」を必要とするのか。その「なぜ」を説明するためには、重苦しい過去の出来事に向き合わなければならなかった。
性暴力を「ない」ことにされたり、トランスジェンダーはこの社会に「いない」ことにされたりしてしまう状況でもありますし、被害を受けたことを自分の中で否認する気持ちもありました。自分でもまだ整理がつかない、言葉にできていなかった出来事がこんなにもあったのだと書き進める中で気づかされました。

――その過程においては、ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家ハン・ガンの小説から漫画の『ブルーロック』、文月悠光の詩集まで、さまざまな言葉や物語が伴走します。
『ブルーロック』はサッカー漫画ですが、“自分を縛る鎖のほどきかたを描いている漫画”という読み方もできると思っています。自分を見つめ返してくる誰かの目に出合ってはじめて、私たちは自分の姿を見る。
書くことも、まさにそうです。もうやめたい、知られたくない、苦しい。それでも自分で言葉にしなければ、なかったことにされてしまう。そうして絞り出した言葉が誰かに届けば、その人もまた自分の思いを言葉に変えていけるかもしれない。
『君と宇宙を歩くために』という漫画もそこは共通していて、他者を知ることで変わっていけることを教えてくれる物語だと思っています。
本書でも触れていますが、私にとっては物語の登場人物たちは、ほとんど「生きている人」なんですね。私の修士論文は大江健三郎の『臈(らふ)たしアネベル・リイ』だったのですが、その中に出てくるサクラさんという女性を、論文では「サクラさんは~」とずっと敬称をつけて書いていたんです。私にとってはそれが自然なことだったので。
昨年、大学院時代の友人に会ったのですが、「あのときはなぜ “サクラさん”と書いているのかわからなかったけど、今ならわかる。フィクションを通じて、サクラさんと出会ったり、対話をしたりして、自分の経験とも出会っていたんだね」と言ってくれました。その言葉は嬉しかったし、私にとってはそれくらい物語の中の人も言葉も大切な存在なんです。

社会が「養生」に罪悪感を抱かせている
――読み進めていくほどに、視界が明るく開けていくような感覚があります。さらに中盤では、「養生はいつも社会的なもの」というテーマにつながっていきますね。
いまの社会は「養生する」ことに罪悪感を抱かせる構造になっていると強く感じています。勤勉さの裏返しで「休むな」「遊ぶな」というメッセージが発信されていますし、「排除」という形で、都市部では例えば公共の場である公園のベンチにすら座れないようなことが起きている。
ひたすら効率化が優先されて余白がどんどん消え、働き続けないと生活ができない。そんな社会になりつつありますよね。本来であれば、人が生きられるようなセーフティーネットがある社会こそが安心できるはずなのに。
――「生産性」という言葉には、社会の「不安」が貼り付いているようなところがあります。すべてが「自己責任」とされる空気を感じ取っている人は多い気がします。
私は1980年生まれの就職氷河期世代にあたります。兵庫県のベッドタウンで育った私でも、幼い頃にバブルの空気を見ていたし、若干の憧れもあったんですね。ところが、私が大学生になったら、唐突に社会が“自己責任モード”を押し付けてきた。自分の責任でなんとかしないと、と思わせてくる空気がありましたし、就活をする友人たちも苦しそうでした。
私の場合は、性別で分けられたスーツを着て毎日を過ごさなければならないことへの抵抗が強くあったので、そもそも就活に入っていけなかったのですが、それでも「自己責任」という価値観をあの頃に強く植えつけられました。多分、今もまだそこから抜けきれていません。
でも、生きていく中では自分の無力さや、「これはどうしたってできない」と認めざるをえない場面が出てきますよね。そうなったら、もう弱さを認めて人に頼ってみる。そういうことが、最近ようやくできるようになりました。
一方で周囲を見渡すと、自分がほっとできる時間を上手に見つけている人も結構いるんですね。だから、そういう人たちの言葉や価値観に触れながら、ゆっくりと自分を解放することを繰り返していくのが大事なのかな、と今は思っています。繰り返しながら染み込ませていかないと、すぐに自己責任マインドに戻ってしまうので。

――「養生」とは、この表紙の木々のように、ゆっくりと枝葉を伸ばして茂っていく、互いに支え合いながら光を取り込んでいく。そんなイメージなのかもしれませんね。
ああ、そうですね。この本ができあがって表紙を見て、 「茂った枝の中の余白に、養生する言葉というタイトルがふっと現れている。それこそが養生という意味なのかな」と感じました。読者の方でも、そういう感想を伝えてくださる方も多くて嬉しかったです。
看護と養生はつながっていた
――後半では、「看護」と「養生」の関係性についても深く考察されています。ナイチンゲールの『看護覚え書』の言葉も紹介されていました。
10年ほど前に看護専門学校で非常勤講師として「看護と文学」の講義をしたのですが、学生たちは皆が診療科を回ってさまざまな実習を終えた後だったので、経験に基づいた理解がすごく深かったんですね。教えているこちらが恥ずかしくて仕方がなくなるほどでした。
そのときに気づいたのですが、看護の現場は「言葉」がすごく大切なんです。声の出し方ひとつで、目の前の人が「生きよう」と思えるかどうかが変わる。
本書の最終回では「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演された看護師の田村恵子さんと対談させていただいたのですが、田村さんも言葉の置き方が非常に論理的なんですね。それなのに、優しさと温かさがある。
環境や体調を整えながら、どういう言葉を、どう相手に送るかを考える。それは自分や他者の「生を養う」こととも繋がっているのだと看護から学びました。

自分のための言葉を見つけたい欲求がある
――昨今、生成AIが簡単に言葉をアウトプットしてくれるようになりました。この流れが進むと、自分の内から言葉を出すことが億劫になる人が増えそうですが、岩川さんはどう思いますか。
表現を意味する「expression」は、「ex(外へ)」と「press(押し出す)」が組み合わさっているんですよね。自分の中から外に出すこと。それが表現の重要な要素だと私は思いますし、そのプロセスこそが今後より大事になってくるのではないでしょうか。
AIはパターンに沿って言葉を自動生成し、文章を書けます。でも自分の内側を通って外に押し出される言葉には、その言葉にしかないリズムや、しっくり来る感じがあるはず。そして、日々を生きる人間には、自分にしっくり来る言葉を、どうしても自分で見つけたいという欲求がある気がします。
――自分で言葉を探し、内から外へと絞り出す過程もまた、自分のための「養生」ですね。
この本を読んだ方からいろんな感想をいただくのですが、「今、出合えてよかった」と言ってくださる方が不思議と多いんです。
「今まさに苦しみにのまれそうだったけど、これを読むことで、自分の養生へと向かっていける気がした」「私はこんな養生をしているんです」とお話してくださる方がたくさんいます。
そういう言葉を聞くたびに、時間をかけてでも言葉にして、本にしてよかったと心の底から思えますね。この本が誰かの養生のきっかけになれたら、それが一番嬉しいです。

