
ISBN: 9784309209241
発売⽇: 2025/05/09
サイズ: 13.5×19.3cm/272p
「極北の海獣」 [著]イーダ・トゥルペイネン
かつては地球にいた種が、もはや存在しなくなる。世界はそれでも続いていくが、以前と同じではない。現在に生きる私たちは、かつての世界がどのようなものだったか、思いを馳(は)せるしかない。
『極北の海獣』は、喪失の感覚を絶えず喚起しつつ、ヘルシンキの自然史博物館に展示されている、ある絶滅動物の骨格の旅をたどっていく。18世紀の博物学者シュテラーは、参加した探検隊の遭難をきっかけに、アリューシャン列島で未知のカイギュウを発見する。それを皮切りとして、19世紀中盤のロシア領アラスカに赴任した総督の妻と妹、ヘルシンキの動物学教授の助手として博物画を担当する女性、20世紀後半にヘルシンキで働く標本管理士の男性の人生が、現在に至るステラーカイギュウの骨格の旅と交錯する。
生命が地球に誕生し、複雑化していった先に、カイギュウという種が登場する。気の遠くなるようなその時間に、やがて、人間の時間が出会う。『極北の海獣』の提示する世界は壮大なものだ。同時に、個々の人が社会の制約のなかでささやかに生きる姿を見つめる微視的な視線が、小説の大きな魅力でもある。
例えば、博物画を作成する女性ヒルダは、その確かな才能を教授に認められながらも、女性の高等教育や社会進出を認めてはいない時代に前途を阻まれ、表舞台に立つことを許されない。彼女は無名の脇役としてつかのま科学を支え、そして消えてしまう。
ひとつの骨格が、現在にたどり着くまでの旅路には、いくつもの人生との出会いがある。その背後には、光が当たることのない無数の人生があり、現在にたどり着かなかった無数の骨格が、無数の種がある。それらの命には、どのような物語があったのか。その問いはいつしか、現在に生きる私たちの命には、どのような物語がありうるのかという、未来への問いにつながっていく。
◇
Iida Turpeinen フィンランドの文学研究者。初の長編となる本書でヘルシンギン・サノマット文学賞を受賞。