数年前から、遠くのものが二重に見えるようになった。最初は疲れている時だけだったが、そのうち夕方以降にテレビをつけると、字幕が二重に見え出した。ははあ、これが老眼という奴(やつ)か、とまず思った。
子どもの頃は、周囲の大人が我々の身体の変化を喜ばしく受け止めていることがよく分かった。とはいえ何せ身長がにょきにょき伸びることも、体つきが性別に合わせて変わることも初めてだったので、その祝福には不可思議な戸惑いが伴った。
これが老眼かと考えた時、三十年も昔のその感覚が思い出された。成長と老い。年を重ねていくばかりの一方通行の人生の中で、一見、正反対と映ることも、いざ直面すれば案外似通っているのかも、と思った。
ただわたしの「老眼」はその後ますますひどくなった。遂(つい)には登山の帰路、足元がすべて二重に見えて危なくてならず、老眼鏡を作ろうと眼科に飛び込んだ。ところがお医者様はわたしの訴えに首をひねり、複数の検査の挙句(あげく)、「老眼ではないです。斜視です」と診断された。
中年以降に現れる斜視は、目の筋肉の衰えによるものや脳神経疾患によるものなど理由は様々らしいが、とりあえずわたしの場合は進行する病気によるものではないと判明した。まず一安心だ。
お医者様の勧めに従い、斜視矯正用の眼鏡を作ると、驚くほど視界がクリアになった。この数年、自分がいかにすべてのものを二重に見ていたかと思い知らされた。ただ長い歳月をかけてゆっくりゆっくりそんな二重の世界に馴染(なじ)んでいったため、それにさして不便を覚えていなかったのだから、慣れとは実に恐ろしい。
そしてこうして見やすい視界を取り戻すと、いまの自分の環境の中で、知らず知らずに慣らされているものが他にもあるのではと不安になる。自分が生きているのが一重の世界なのか、二重の世界なのか。老眼と思い込んでいるものは本当にそうなのか。あれこれ注意深く探りながら生きていかねばなるまい。=朝日新聞2025年9月24日掲載