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東山彰良さん「三毒狩り」 絶望の先にある「あきらめ」という光明

「三毒狩り」を刊行した東山彰良さん

 少年は地獄から舞い戻り、人間界に逃げ出した「三毒」を追う。東山彰良さんは、「三毒狩り」(毎日新聞出版)という壮大なエンターテインメントに「あきらめ」についての考えを描き出した。あきらめを受け入れた先に、物語は続く。

 舞台は、毛沢東率いる中国共産党が全権を握る山東省。佟雨龍(とううりゅう)という少年は、心やさしい養父母と姉、犬と暮らしていたが、共産党の青年幹部によって一家の幸せな生活は壊される。一本気な雨龍は青年幹部を許すことができず、怒りに身を任せた結果、地獄に落ちる。

 三毒とは、仏教で克服すべき煩悩とされる、むさぼり、怒り、愚かさのこと。六道輪廻図(ろくどうりんねず)の中心には、それぞれの化身として鶏、蛇、豚が描かれている。三毒が生き物として実体をもつ面白さに着目したことで、新しい死者の物語が生まれた。

 東山さんは、「三毒はその人そのものだと思う」という。たとえば、何に対して腹を立てるのか。「そのこだわりがなくなったら、僕と隣の人との区別はつかない」

 雨龍が怒りからとった行動も、彼が彼たるゆえんと言えるものだった。「あきらめれば楽になると分かっていてもできないせめぎ合いは、誰にでもある」

 ところが、地獄に落ちた雨龍は、長年気になっていた自分の出自を知り得る状況になるが、あきらめる。人間界に逃げ出した「三毒」を討伐するよう命ぜられ、再び現世に戻ってからも、もう一度生き直すことはできないのだと思い知らされていく。

 東山さんはこの数年、「あきらめ」について考え続けていた。若い頃は、あきらめるのは悪いことだと思っていた。だが、年を重ねるうちに、体の変化や身近な人の死など、あきらめるしかないことも増えた。

 「どんなに望んでも手に入らないものもあるし、あきらめなければならない局面は誰にでも訪れる」。現実を受け入れないと、次の一歩は踏み出せない。物語の中にこう記した。

 《あきらめの先に絶望があるのではない。そうではなく、絶望の先にある光明こそが、あきらめなのだ》

 読者の心に言葉が深く打ち込まれる小説にするためには、どのように表現したらいいか。腐心して書き上げた。

 実は、東山さんは当初、雨龍は出自を聞くだろうと考えていたという。だが、書く直前で違うと思い直し、進む道を変えた。

 「何年か前から、自分が物語を動かすのはなるべくやらない方がいいと気が付いた」。最初に考えた道なりに進むと、物語の可能性を狭めるような気がしている。だから、物語や登場人物が動きたい方向についていく。「直前まで自分の中にあると思っていなかった一文が出てきた時が、一番楽しい」

 デビューから20年以上、直木賞を受けてからすでに10年が経つ。「手応えはどの作品も100点満点」。一方で、「まだ作家になりきれていない感じがずっとある」と話す。小説を書き続ける原動力は、「ちょっとでも本物に近づきたいからかな」。

 泥臭い文章が好きだという。「若干ユーモラスで、若干不道徳で、その不道徳に一瞬ドキッとさせられるようなものに、胸がきゅんとしますね」

 これからも、作家としてあきらめないこととは。「自分に物語がとりついた時に、自分のやり方ではき出すことは、20年変わってこなかったし、変わらないと思う」

 それしかできない、とも言う。

 泥臭い文章を書いていく。(堀越理菜)=朝日新聞2025年7月23日掲載