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「なぜ書くのか」書評 権力が恐れるのは銃よりも言葉

評者: 藤井光 / 朝⽇新聞掲載:2025年08月16日
なぜ書くのか:パレスチナ、セネガル、南部を歩く 著者:タナハシ・コーツ 出版社:慶應義塾大学出版会 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784766430400
発売⽇: 2025/07/08
サイズ: 18.8×12.7cm/218p

『なぜ書くのか』 [著]タナハシ・コーツ

 アフリカ系アメリカ人作家のタナハシ・コーツが、同じくアフリカ系の学生たちに語りかけるルポルタージュとして、本書は幕を開ける。だが、その射程は、ある個人や集団をはるかに越えたものだ。書くという営みは「人間であること」をめぐって権力と対峙(たいじ)する行為なのだ、とコーツは説いているのだから。
 セネガルのダカール、合衆国南部のサウスカロライナ州、そしてパレスチナ。旅の先々で、コーツは絶えず人種と権力の問題と向き合う。
 アフリカ系としての「ホーム」だと考えるセネガルで、コーツを待っているのは、アメリカでの自己からの自由ではなく、人種差別を抱え込んだ近代世界の起源である。一方の合衆国南部では、授業でコーツの本を教材にしたために抗議を受けた高校教師を訪れ、一冊の本が想像力に働きかける可能性と、それに対する反発を目にする。
 そして、パレスチナを訪問した際の記録が、本書の半分近くを占める。コーツが現地で目にするのは、ユダヤ人がパレスチナ人との間に築いた人種隔離体制であり、搾取と排除に支えられたイスラエルを庇護(ひご)し続ける合衆国の影である。非人道的なその権力に対抗しようとする人々の声を、コーツは憧れを持って書き留める。
 本書は権力論であり、物語ることの政治性についての考察であり、国内外の双方の視点からアメリカの姿を照らし出す試みでもある。そして、その中核には、権力によって「非人間」とされた者たちが、言葉によって「人間性」を取り戻すことへの深い信頼がある。権力が恐れるのは、銃よりも言葉なのだ。
 ひとりの書き手による本を、ひとりの読み手が開く。その営みは、どこまでもささやかなものだ。だが、コーツは私たちに何度も思い出させる。新たな物語を作ることで人間性の枠組みは広がるのであり、未来の書き手たちが担うのは、世界を救う仕事なのだと。
    ◇
Ta-Nehisi Coates 75年生まれのジャーナリスト、米ハワード大教授。『世界と僕のあいだに』で全米図書賞。