宮崎夏次系「カッパのカーティと祟りどもの愛」 恐ろしくもユーモラスで、そして哀しい(第3回)
おととしの夏、岩手を訪れた。遠野市立博物館の企画展が目当てで、以前から憧れていた遠野の地を踏むことができた。
有名な常堅寺(じょうけんじ)のカッパ淵にも行ってみたのだけれど、カッパがすいすい泳ぐにはだいぶ浅くささやかな小川だった。きゅうりでカッパ釣り体験……はしなかった。釣れなかった時、きゅうりをどうすればいいのか? 水に浸けてしまったらかじるにも抵抗があるし、とためらってしまった。つまんねえ大人になっちまったな!
二泊三日の短い旅ながら、「さっぱ船」という小型の磯船でクルージングを楽しみ(そしてしこたま船酔いし)、東日本大震災の遺構も見学できたし、小岩井農場にも行った。快晴も、曇り空も、ゲリラ豪雨も、雨上がりの虹も拝むことができ、つまらない大人にも遠野の神さまは気前がよかった。
カッパは、口減らしで川に捨てられた子どもを指すとも言われている。フィクションにおけるカッパは、馬を水中に引きずり込んだり、人間に相撲を挑んだり、恐ろしくもユーモラスで、そして哀しい。
それって、宮崎夏次系の世界そのものでは、と「カッパのカーティと祟りどもの愛①」(マガジンハウス)を読んで思った。
主人公の口酒祝(くちさけ・いわい)は、笑うことが苦手なコミュ障が災いし、窃盗の疑いをかけられてバイトをくびになる。一見愛らしい少女なのに、笑顔は「化け物」と恐れられるやばさで(作中ではっきりとは描かれていない)、実の母親からも「あなたは笑うと不気味なのよ」と言われてしまう。
「笑いさえしなければいいの 一生…」
そんな祝の理解者は祖父の「おじい」ただひとり。けれどその「おじい」にも先立たれ、悲しみに打ちのめされる祝の元に、頭の皿が割れた幼いカッパが現れる。
宮崎夏次系作品の登場人物は、たいていひとりぼっちだ。他者には見えない苦悩や生きづらさを抱え、世間からはぐれて生きている。子ガッパは群れから追い出されたようだし、心やさしく聡明なヤングケアラーのフウ、人間嫌いで無信心な牧師、祝に濡れ衣を着せたバイトリーダーだって。かわいい絵柄やシュールな世界観が生み出す笑いにまぶされた孤独のとげが、不意に胸を刺す。
「カッパとか オバケの木とか 海坊主とか 追っかけてくる手とか なんでもいるのに」
「きっと おじいとは もう会えない」
でも、寂しさでうずくまった背中に温かい雨が降ってくるような瞬間を、もう会えない大好きな人から届く愛を、宮崎夏次系だけの表現で見せてくれる。そのたび、作品の世界ごと抱きしめたくなる。せつなくていとおしい宝物だ。
また遠野に行く機会があれば、今度こそカッパ釣りにチャレンジしてみようと思う。静かな小川にきゅうりを垂らし、ひとりぼっちのあの子に会えるかもしれないと期待して。