この世にないはずの物を、まことしやかに出現させるクラフト・エヴィング商會。ないはずの物なのに、どこか懐かしくて美しく、おしゃれでくすりと笑えて、気持ちが揺れる。『ないもの、あります』は、様々なロマンあふれる物を産み出す奇才、クラフト・エヴィング商會の原点ともいえる一冊だろう。
この本に登場する物は、「堪忍袋の緒」「舌鼓」「左うちわ」「針千本」など、比喩として慣用的に使われてきた言葉の数々である。まさに「ないもの」なのだが、老舗店員のような慇懃(いんぎん)な説明文と、エッチング風のクラシカルな絵で具現化される。あ、「堪忍袋の緒」って、こうなのか、と一瞬納得してしまう。
これまで人々の意識下に沈められていたものが、急に白日の下にさらされたのだ。物はあくまでも物で、表情が分かる目鼻があるわけでもないのだが、なんとなく気恥ずかしそうにしているように感じてしまう。「ケンカっ早い方のために『江戸っ子仕様』の『鋼鉄製』も御用意いたしております」などとユーモアたっぷりの添え書きがあるので、なおさらである。
考えてみれば「堪忍袋の緒が切れた」なんて言わず、「腹が立って我慢ならない」とそのまま言えば済むことである。なぜわざわざありもしない道具を使って暗示的に言いたくなるのか。道具入りの文章の方が、愛嬌(あいきょう)があるのは確かだ。怒っていても、言葉のちゃめっ気によって人間関係を必要以上に深刻化させない作用がある。だから「堪忍袋の緒」が具現化されて、心が和むのだと思う。
「原則的に〈左うちわ〉は、一生ものではありません」「〈語り草〉なるもの、育てすぎますと〈お笑い草〉に化けてしまうことが、しばしばであります」など、おのおのの注意事項に時に含まれる微毒も読み所である。
◇
ちくま文庫・990円。09年2月刊、11刷5万4千部。01年刊の単行本は9刷2万4千部。25年本屋大賞で「超発掘本!」に。担当者は「『ささやかな感動』にくすぐられたいのでしょう。『おかんむり』など昔風の言葉も新鮮だと思います」。=朝日新聞2025年8月30日掲載