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「暦のしずく」書評 「語り」に賭けた男の希望と絶望

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2025年09月13日
暦のしずく 著者:沢木 耕太郎 出版社:朝日新聞出版 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784022520623
発売⽇: 2025/06/20
サイズ: 18.8×3.6cm/560p

「暦のしずく」 [著]沢木耕太郎

 ノンフィクション作家沢木耕太郎は、陰翳(いんえい)ある人物を何人も描いてきた。社会党委員長を刺殺した若きテロリスト、山口二矢(おとや)。リングから静かに消えたボクサー、カシアス内藤。
 そして本作では江戸中期に実在した講釈師(講談師)、馬場文耕(ぶんこう)である。これまでと違うのはノンフィクションを離れ、時代小説として書かれたことだ。沢木の筆はさらなる自由度を得た。
 わけあって武士の身分を捨てた文耕だが、物語の冒頭からその腕が試される。逆恨みをした武士に待ち伏せされ、丸腰のところに刀を向けられる。文耕は構えだけで相手を圧し、勝負をものにする。その強さ、素早さ。剣豪小説としての味わい十分だ。
 しかし本作の醍醐(だいご)味はそこにはない。世に講釈というものがまだ確立していない時代にあって、講釈とは何かを問いつつ、自分なりにかたちづくっていく。そんな文耕の真剣な姿が迫ってくる。
 軍書や古典にある史実を読み聞かせるのが講釈だと信じていた文耕に、こんな依頼が来る。遊女を主役にした話をつくってくれないか。「拵(こしら)えた話など語れない」というのが文耕の姿勢。しかし依頼した男は「語ることは、所詮(しょせん)、騙(かた)ること」と言い切る。語るべきはノンフィクションか、フィクションか。
 人づてに聞き、自らも語っていたことが、実像とまったく違っていたことも、身をもって知る。「これまで自分は何を書き、何を語っていたのだろう……」。文耕の心の揺れは、ノンフィクション作品を書き続けてきた沢木自身が抱えていたものかもしれない。
 文耕はやがて、小さな藩の百姓一揆に関わっていく。かつては、講釈をするのは「食うためだ」とうそぶいていた男が、講釈の持っている力に賭けようと決意する。とがめを受け、捕縛される危険を冒しながら。物語の最後は、希望と絶望が同居している。
    ◇
さわき・こうたろう 1947年生まれ。作家。著書に『テロルの決算』『一瞬の夏』『深夜特急』『春に散る』などがある。