絵本ならではの味わい方の一つに〈絵比べ〉がある。複数のバージョンが存在する作品の、画家による世界観の多様さを楽しむ、というもの。
たとえば、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』。毎夜セロ(チェロ)の練習を重ねるゴーシュの家を、動物たちが次々と訪ねてくる――という物語だが、よほど絵心を刺激するものがあるのか、これまで十通り以上もの絵本が刊行されている。今回はそのうちの3冊に触れたい。
まずは王道中の王道、茂田井(もたい)武の絵による福音館版。1966年の刊行ながらも、いまだその絵は新しい。ゴーシュはお洒落(しゃれ)だし、線も色遣(づか)いも鮮烈。個人的に最も強く感じるのは、ゴーシュの内側から滲(にじ)みでる音楽家としての鬱屈(うっくつ)や熱情だ。とりわけ猫にセロを聴かせる場面からは、彼の秘めたる猛々(たけだけ)しさがひしと迫ってくる。茂田井ゴーシュはアーティストなのである。
他方、赤羽末吉の絵による偕成社版のゴーシュは、質朴な努力家といった風情。その静かな佇(たたず)まいに対し、動物たちは動きに富んでいる。猫もかっこうも生き生きと躍動し、狸(たぬき)に至っては、もうその造形だけで心を鷲(わし)づかみにされる。それら動物と向き合うゴーシュの柔らかい表情も印象的だ。赤羽ゴーシュは人間味に溢(あふ)れているのである。
小林敏也の画による好学社版には、ゴーシュの姿ははっきりと描かれていない。独特のタッチと陰影で鮮やかに表現されているのは、ゴーシュの目に映る風景だ。つまり、読者の一人一人がゴーシュとなって、目の前に立ち現れては消えていく風景を追っていくのである。これまた不思議な絵本体験だ。
かくも多彩なゴーシュ世界だが、今回改めて感じ入ったのは、長きにわたって錚々(そうそう)たる画家を引きつけてきたテキストそのものの力だ。私はこの本を何度も読んでも、初めて読んだ気持ちになる。そして、毎回、かっこうが放つこの言葉に心を射貫(いぬ)かれる。
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでも、のどから血が出るまでは叫ぶんですよ」(作家)
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自らもチェロを弾いた宮沢賢治(1896~1933)は死の直前まで『ゴーシュ』を推敲(すいこう)していたという。福音館書店版は1210円、偕成社版は2200円、好学社版(1980円)は絶版したパロル舎版の復刊。=朝日新聞2025年10月4日掲載