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中前結花さん「ミシンは触らないの」インタビュー 「エッセイを書くために生まれてきた」の言葉に励まされ

中前結花さん=篠田英美撮影

誰かにもらった言葉で私はつくられる

――2冊目となるエッセイ集『ミシンは触らないの』のテーマを「忘れられない言葉」にしたのはなぜでしょう。

 私は一人では生きられない性分なんです。恋愛していないとダメとかそういうことではなくて、周りの人に助けてもらったり、支えてもらったりしながら生きてきた、という意味で。それに他人からの影響もすごく受けやすい。

 誰かにもらった言葉で自分の性格は形成されてきたんだなと日頃から深く感謝していることもあるので、このテーマにしました。「父の作文」(「ほぼ日刊イトイ新聞」で2018年に公開したものの続編)のように過去にWeb媒体などで発表したものも、大幅に書き直しています。

――バイト先で好きになった相手に送ったラブレター、 父からのおかしな説教、人から聞いた忘れ難い思い出……。時系列という縛りを離れて、さまざまな記憶の断片がパッチワークのように縫い上げられています。

 今作では子ども時代のエピソードを意識的に多く盛り込んでいます。私、子ども時代の話を書くのが大好きなんです。誰もが通ってきたあのときの感じを分かち合いたい、という気持ちが強いタイプなので。子ども時代の切なさと、大人になったからこその切なさ、どちらも一冊の中でバランスよく読んでもらえたらいいな、と思っています。

 私がエッセイを書く上でずっと目指しているのは、松任谷由実さんの曲を聴いた後みたいな気持ちになってもらうことなんですね。ユーミンの曲はどれもちょっと切ないけど、優しくて、あったかくて、余韻がある。そして、自分の過去をふっと思い出す。そういう読後感のある文章を書きたい。

 デビュー作の『好きよ、トウモロコシ。』はインスタグラムの口コミのおかげでたくさん読まれるようになった本なのですが、「昔の自分を思い出す」という感想をとても多く見かけるんですね。それは多分、ユーミンの曲を聴いたときの余韻を私が意識しているからじゃないかなと思っているので、すごく嬉しいです。

 でも、逆に不思議だなって思うこともあって。

 私が本で書いている出来事は、どれも人生の大事件ベスト30くらいのことなんですよ。のど自慢に出場したとか、上京とか、家族との別れとか。自分にとってはどれも大きなドラマ だけど、「人生で誰にでも起きるような出来事が丁寧に描かれている」という感想がとても多くて、そのギャップがいつもちょっと不思議なんです。

エッセイを書き続ける理由

――のど自慢はさておき、平凡な出来事でも、その人のレンズを通して語られると特別な物語に見えてくる。優れたエッセイはそんな共通点がありますよね。エッセイを書く楽しさはどんなところにありますか。

 私の場合、書いている最中はそんなに楽しくはないんです。昔の出来事を書いているときは、当時の感情を思い出してつらかったり、喫茶店でも泣きながらキーボードを打っているから「変な人だな」と周囲からは思われているかも。 書きたい思いがどんどん溢れてくるというタイプでもありません。

 ただ、書いたものを誰かに読んでもらうことが好きなんです。自分が体験したこと、面白いと思ったことを知ってほしい。昔、ミクシィで日記を書いていたことの延長線上なのかもしれません。人の話を聞くことも面白いですが、私はやっぱり自分の物語を書きたい。自分が生きていたこと、自分の母や父が生きた証を残したいというか、そういう気持ちがあるんだと思います。

――ご両親の思い出のエピソードも多く盛り込まれています。

 遡ると、母について書いたのが人生で初めてのエッセイだったので、そこが多分、私の始まりなのかもしれません。私の母はすでに亡くなっているのですが、母の半生記のようなものを書いてみたい、という思いがずっとあるんですね。娘の目から見ても、母は面白いことや悲しいことを私よりずっとたくさん経験した人生を送った人だと思うので、やっぱり母や父の話は多くなりますね。

――お母様が余命宣告された直後のことを綴った「道」では、残酷な「忘れられない言葉」も描かれています。

「道」は初稿を書いて担当編集者さんに渡したとき、「これは載せないほうがいいと思う」と言われた一編なんです。「中前さんは読者にユーミンの歌を聴いた後のような気持ちになってほしいと願うのであれば、これを読んだ後ではきっとそうは感じられないと思います」と。

 自分でも私らしいのどかさはないし、読んでいていい気分にはなってもらえないだろうことはわかっていました。と同時に、今の私にしか残せないものなのだとも強く思っていて。この本に入れなかったら、あの出来事については一生触れない予感がしたんです。30代の今しか残せない感情だという確信があったので、なんとか入れたかったんですね。最終的には終わり方を工夫した上で収録できることになってよかったです。

家族にもピークがある

――『好きよ、トウモロコシ。』ではずっと「娘」の立場だった中前さんが、今作では「大人」側の視点を獲得している場面も描かれます。続けて読むと一人の女性の人生に伴走しているかのような親近感が湧きますが、「ミシンとオーブンレンジ」では自身の苦手についてある告白もされています。

 私は人と比べると苦手なことがいっぱいありますし、だからこそ人に助けられている部分もたくさんある。そのことについて、ここで触れてもいいのかもしれないと思って書いたのが「ミシンとオーブンレンジ」です。

 その出来事と関係しているのかわからないのですが、「自分」というものが溢れ出るようなピークは20代後半から31~32歳くらいだったなと最近になって思うんです。あの頃のような発想や文章は、今の私からはもう絶対に出てこないから。

 その原因が年齢なのか、もうたくさんエッセイでエピソードを綴ってしまったことが理由なのかはわかりませんが、どちらにしても自分のそういったピークは多分もう超えてしまった気がします。人それぞれでタイミングは違っても、振り返ったときに「あそこがピークだった」と感じる時期はきっとあると思うんです。

 もちろん、その一方で今の自分だから見えてくるもの、想像できることが増えてきたのも確かなのですが、この先、40代、50代と年齢を重ねていくと、子ども時代の記憶はどんどん遠ざかっていく。それならばきちんと思い出せる今のうちに、幸せだった子ども時代の時間をたくさん書いておきたいと思いました。

 そんな風に考えるようになった理由は、私にとっての子ども時代が、私の家族にとって本当に尊い時間だったからかもしれません。それも、「ピーク」と言えるかもしれませんが。

――家族としてのピーク、とはどういう意味でしょう?

  子どもはどんどん成長して、やがて親の手を離れて、家を出て行きますよね。私は、大学卒業とともに上京してしまったので、父と母と娘である私の3人で過ごしたあの尊い日々が、今思えば自分たち家族のピークのようなものだったのかもしれません。だから、それを文章で残したいという気持ちがあるんです。

――今は「君はエッセイを書くために生まれてきた人だよ」と言ってくれる夫さんと新しい家族を築かれているそうですね。

 一番近しい存在の人がそんな風に言ってくれるのは、すごく心強いです。夫は文学的な人ではまったくないのですが、いつもゲラを一番に読んで、「よかった」と言ってくれる。もしかするとあまり伝わっていない部分もあるのかもしれないけど、そんな風に背中を押してくれる彼にはいつも救われています。

エッセイストとして筆を磨いていきたい

――後半にはちりばめられていた言葉が星座のように結びつき、さらにタイトルの意味も解き明かされます。本というパッケージだからこその面白さと読み応えは前作以上でした。この秋からは専業のエッセイストになったと公言されていますね。

 今までは過去に起きた出来事を書いてきたのですが、やっぱり出来事の数には限りがあるんですね。それに、専業エッセイストとしてずっと家で書いていると、夫としか話しませんから、大きな事件は起きませんし。

 だから、エピソードを作りに行く……と言ったらちょっといやらしいんですけど、「自分から何かを起こしに行かなくちゃ、どうやったら起こせるかな?」という気持ちが今はあります。そうでないと、どんどん先細ってしまいそうなので。

 そうは思いつつも、一方では私が書くものが好きだと感じてくれる人がもっと増えていけば、あるいは、もっともっと腕を磨くことで、夫とこんな話をしたとか、誰かとお茶をしたとか、そういう些細なことでも、面白く書いたり、面白く読んでいただけたりするようになる気もしています。日常の何でもないことを書いて、読者に喜んでいただける。いつかはそんな作家になれたらなと思っています。