「一穂ミチの日々漫画」秋のごはん漫画特集 食べることは生きること伝える3冊
今年、生まれて初めて「佛跳牆(ファッチューチョン)」を飲んだ。この名前にピンときた人は99.9%『美味しんぼ』の読者でしょう! 修行中のお坊さんもあまりのうまそうな匂いに塀を飛び越えてしまう……と言われている中国のスープ。乾物をぜいたくに使い、手間暇かけて作るというその一品は家庭で再現するにはかなりハードルが高く、かれこれ30年くらい「どんな味なんだろう?」と憧れ続けてきた幻の味だった。
それが、たまたま訪れた中華料理店のコースに含まれていた。蓋つきの器でしずしずと運ばれてきた佛跳牆と、いざご対面。蓋を取ると、意外にも馴染んだ香りが立ち昇る。きのこがたくさん使われているからか、山菜っぽい香りだ。あと、出汁とかおしょうゆの気配もあり。飴色のスープをひと口啜ると、滋味深いとしか言いようのない味わいに自然とため息が漏れた。五臓六腑に染み渡る、とはこのことだろう。二日酔いの朝にいただいたらたちまち地獄から天国に飛べそう。
その店の佛跳牆はきのこと根菜と木の実だけで仕立てたものだったが、後日別の店で干しあわびが入ったものをいただくと、力強い旨みのパンチがあり、こちらもたいへん美味だった。『美味しんぼ』を読んでいなければさほど感動せず「なんか画数の多い汁物」程度の解像度で終わっていたと思うと、山岡さんに感謝だ。
ごはんは偉大、漫画も偉大、というわけで、食欲の秋にぴったりなごはん漫画の紹介です。
会社勤めで疲弊し、壊れそうになってしまった「僕」は、自分を取り戻すために心身を休めることを選ぶ。穏やかな日常に身を浸し、ごはんを作り、外でおいしいものを食べる。お高いごちそうではなく、3分間ゆっくりと待ったカップラーメンや、無人販売で買ったとうもろこしや、旅先のカツカレーで、「僕」はすこしずつ癒されていく。
フルカラーで描かれた童話のようなタッチがかわいらしい。そして何より、料理の絵が見惚れるほど繊細で美しい。見ているだけで楽しくなり、そしてお腹も鳴る。うまそう! 食いてえ!
「カップラーメンにおける事実上の最初のひと口は 蓋を開けた時に鼻先をかすめる湯けむりの匂いかもしれない」といったモノローグの数々も素晴らしく、絵でも言葉でもおいしい一冊。
時代に、社会に、世間に、周囲の人たちに、置いていかれまいと走った結果、自分の心を置き去りにしてしまったら元も子もない。休む決断にも勇気が要るというのも悲しい話だけれど、「おいしいものを食べておいしいと思える気持ち」は、少々のタイムロスよりずっと大事なものだと教えてくれる。レタスチャーハン、いちごジャムのヨーグルトゼリー、枝豆入りのミートローフなどのレシピも充実してます。
猫の手も借りたい……ほどではないが、そこそこ忙しい同棲カップルのシュウくんとアヤちゃん。飼い猫のミケは、週に1回、そんなふたりのためにごはんを作って恩返しをしている(シュウくんもアヤちゃんもお互いが作ってくれたのだと信じている)。
猫なんて、いてくれるだけでかわいいから100点なのに、ミケは美少女に変化(へんげ)してスーパーに出向き、予算大体1000円で主菜・副菜・汁物と手際よくこしらえてくれる。こういう、何でもない日常にファンタジーが混ざった漫画、大好物です。
よしながふみの『きのう何食べた?』スタイルで、複数の品を同時進行で仕上げていく手順もきちっと描かれた調理シーンは料理の指南本としてもよさそう。ある日はチキン南蛮・鶏皮と小松菜の辛子和え・白菜漬けと春雨のスープ。またある日は豚バラ小ネギ巻き・オクラとツナの韓国風和え・きゅうりの味噌漬け・玉ネギの味噌汁。普段着のメニューが嬉しい。給食の献立表を見ている時と同じときめきを感じる。
シュウくんとアヤちゃんの結婚話の行方は、ふたりがミケの恩返しに気づく日はくるのか。そして昨今の物価高に尻尾を膨らませていそうなミケちゃん、ちゅ〜る弾むからたまにはうちに出張してくれませんか?
ごはん漫画の範疇に入れていいのか若干迷ったが、冒頭の「揚げた芋でしかどうにもできない気持ちというものがある」というモノローグに胃袋と心を掴まれてしまい、抗えなかった。油とカロリーで殴られたい時ってあるよね。なぜか元気いっぱいの時じゃないんだよね。
摂食障害を公表している作者の、食にまつわるコミックエッセイ。ぶよぶよにふやけた麺や米が好きだったり、菓子パンに「追いマーガリン」を塗ったり、こうしたあまり人に言えない、「食への偏愛」は誰にでもあるんじゃないだろうか。わたしも、カップ麺の類は汁がなくなるほどふやかす派だったりする。
永田カビは自己分析の言語化と描写化が非常に巧い。なので常識と健康からはみ出した食生活でも軽妙な絵と怒涛のネームで「な、なるほど……(そういう考え方もあるのか)」と納得させられてしまう。そしてこのさらけ出しっぷり、無頼派の小説家のような凄みを感じる。
生きづらさに由来する心身の症状や依存はいろいろあるけれど、全ては生き延びるための、その人なりの緊急避難だと思う。揺るがぬ精神や投薬ですっぱり断ち切って「はい治りました」と言えたら苦労はしないわけで、人生はつらくままならないことだらけだ。側から見ればゆがんだかたちでも、生きていこうとする意思がそこにあるのなら、わたしはそっとエールを送りたいと思う。