お気に入りの箱にしまっておいて、一人でいる時にだけそっと開いて「ちゃんとそこにある」と確認する宝石のような、七つの物語が収録された短編集だ。
作中には様々な、誰かにとっての大切な物が登場する。恋人の「小さな弟」が机の奥へしまう、演奏する場所が海辺と決まっている不思議な楽器。タイプライターの活字の管理人が、丁寧に磨く鉛の活字。声を発さない少女が下宿人の男にプレゼントする生き物の抜け殻。観光ガイドが失(な)くしてしまった集合用の旗。
わたしはいつの間にか息を潜めて、それらがどう扱われるのかを見守っていた。なにかを特別に大切にしている人たちは、その物を接点に、世界に関わっているように見える。
表題作「海」の主人公は、恋人の実家へ泊まりがけで挨拶(あいさつ)に行き、「小さな弟」と呼ばれるけれど体格的には小さいわけではない、恋人の弟と出会う。海の生き物たちで作られた楽器の奏者を名乗る弟との、静かな一夜の語りが描かれる。家族について話す時に恋人の「声の調子が微妙にバランスを欠く」ことに気付いている主人公は、夜が明けた後、物語の向こう側でなにを思うだろうか、と心を馳(は)せた。
他者が自分とは別の世界を持つことを、その人にとっての特別な物を通して垣間見る時、持ち主の手つきに倣って大切にしたいと思う。七つの物語に共通して、語り手たちのそんな尊重の姿勢があった。
物語はどれも静かで一見優しい。けれど、読み終えてからふと、頭の芯が痺(しび)れていることに気付く。嫌な痺れではなく、後味を引き、忘れがたいのだ。小川作品に触れる時はいつも、この痺れを感じる。
巻末には作品の本質と執筆姿勢に触れられるインタビューが掲載されている。贅沢(ぜいたく)な一冊である。
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新潮文庫・572円。09年3月刊。13刷9万部。単行本は06年10月刊で、累計11万部。担当者は「派手などんでん返しやあからさまな伏線はありませんが、美しいことばと繊細な世界観が心にすみつき離れなくなるからでは」。=朝日新聞2025年10月18日掲載