- 西尾康之『不死』(くま書店)
- チャーリー・カウフマン『アントカインド』(木原善彦訳、河出書房新社)
- 稲葉振一郎『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』(講談社選書メチエ)
おそらく人類には保存への欲動がある。誰もが思い出の品を保管し、記録をとり、死を延期し、記憶を複製し、未来予測に資する過去の傾向を管理する。
西尾康之『不死』は、永遠の生の保存がデフォルトになった世界の日常を描く。不死の世界では死への抵抗ではなく、生への抵抗が試行される。肉体を分子レベルまで分解してもなお生き続けられる不死の中で、我々は生からどれだけ遠く離れることができ、どこまで死に近づくことができるのか――それが本作のテーマとなる。そこではあらゆる終了条件は単なるプロセスとなり、別れはバージョン管理に置換され、痛みは履歴として記録される。愛も希望も、絶望すらも終了条件を失い、ブランチの分岐だけが、無限に向かって増殖し続ける。
チャーリー・カウフマン『アントカインド』は、記憶のアーカイブが自壊する喜劇だ。語りはコピーを生成し続け、自己はキャッシュに分散し続ける。総上映時間三カ月に及ぶ一本の映画を保存しようとする執念が、あらゆる事物の保存不可能性そのものを露呈する。断続的に誘引される笑いは潤滑油などではなく、壊れた記録媒体への書き込み音のリズムに似ている。増殖する注釈、無限の脚注、自己言及と自己弁護の戯れが作り出す無意味の迷宮。記録は残そうと試みられるほどに、取り返しのつかない差異だけを引き連れる。世界はすべてから逃れる。宇宙は保存に抵抗している。
稲葉振一郎『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』は、保存への欲動に多元的な倫理の座標を与える。長期主義、存在リスク、技術的延命――功利主義の適用範囲を拡張し、すべての時空に存在した/存在しうるすべての人類の視点に立って、いま・ここにはない複数の未来の可能性を政治判断に組み込むとき、我々はいま・ここにある少数の生をどう扱うべきなのか。そこで問われるのは「何を守るべきか」ではなく「守る範囲とそこにかかるコストはどれだけか」ということであり、必要なのは物語ではなく、超多元的で超多項的な定量評価なのであり、つまるところ、物語に抗(あらが)う緻密(ちみつ)で地道なコスト評価の観点なのだろう。
限りなき延命は生を凍らせ、過剰な記憶は記憶そのものを蝕(むしば)み、未来は現在の声を消去する。にもかかわらず、私たちは保存に賭ける――ただしそれは、削除と忘却を機能として内蔵するべきものとして。終了条件を持った保存。諦念(ていねん)や限界といった、ひどく常識的な小さな設計思想。それこそが、個人の生から物語、そして人類の倫理にまで通底する。
いま我々に必要なのは、保存欲動を飼い慣らす理性だ。さもなくばきっと、保存に飼い慣らされるのは我々のほうだろうから。=朝日新聞2025年10月22日掲載