松田素子さんが文章を紡いだ絵本「ムーミンのたからもの」 原作の世界観と自身の価値観、響き合うものを抽出
――ある日、ムーミンは、ひとりで考えていました。「ママは、いつも ハンドバッグを もってる。」「パパは、りっぱな ぼうしを もってる。」「スナフキンが すきなのは、ふるぼけた ぼうし。」「でも、ぼくには……、なんにも ない。」自分には、自分だけのものがないことに気づいたムーミンが、自分だけの「たからもの」を探しに出かける絵本『ムーミンのたからもの』(講談社)。トーベ・ヤンソンの小説「ムーミンシリーズ」をもとに、松田素子さんが文章を紡いだ本作は、原作に流れる空気感や物語のエッセンスが絶妙に汲み取られている。絵本誕生のきっかけは、ムーミンの物語を小さな子どもたちにも親しんでもらいたいという、ある編集者の思いがきっかけだったという。
講談社におられた編集者の横川浩子さんからお話をいただきました。ムーミンの物語は長いので、低年齢の子どもが読むのはちょっと難しい。でも、とてもすてきな作品なので、小さな子どもにも楽しんでもらえるような絵本を作りたいというお話でした。はじめは、原作を簡単な言葉に置き換える仕事なのかなと思って「やります」と言ったら、そうじゃなかった。原作の世界観を大切に、新たなお話を考えてほしいと言われて、びっくりしました。そんなことをしたら作者のヤンソンさんに怒られるんじゃないか、どうしよう……と思っていたところに、あるムーミンの研究者の方から「ムーミンはもはや世界遺産です。圧倒的に確立されている。ほかの人がどう触ってもびくともしない」と言われたんです。
実は私は、編集者でもあり、いろんな画家さんたちと宮沢賢治の絵本をたくさん作ってきました。そんなふうに、いろんな人が賢治の作品をベースに、絵にしたり、音楽にしたり、芝居にしたり、さまざまに変化をさせながら新しい表現を生み出している。でも確かに、原作はびくともしません。……そういうことかと、ちょっとほっとしました。ムーミンの世界もそうなのであれば、物語世界の価値観や登場人物たちの性格をきちんと尊重した上で、ムーミンの世界から私が感じることと、私自身が大切にしてきたこととを共鳴させて、新たな物語を考えてもいいのかもしれない……。そう思って、やる覚悟を決めました。
横川さんとは、その数年前に『スヌーピーのゆうびんやさん』(講談社)という絵本でご一緒したことがありました。「スヌーピー」の世界から抽出した大切な言葉を使って絵本にするという仕事で、そのときに私のことを、「原作の内容やキャラクターの本質を理解した上で、自分の中に一度落とし込んで新しい話を作ることができる」というふうに評価していただいていたようです。
――まずは、原作シリーズ全巻全てを頭にたたき込んだという松田さん。編集者であり、作家でもある松田さんにしかできない作品づくりがはじまる。
最初に、9冊あるシリーズ全巻を、3回繰り返して読みました。原作から外れないように、物語にあるニュアンスとか価値観とか登場人物の性格とか暮らしぶりとか、そういったものを自分の中に沁み込ませました。その上で何ができるかを考えました。
横川さんからは編集者としての役割も期待されていたと思います。ヤンソンさんの世界をもっと幅広い読者に気づいてもらう役目。それをおさえた上で、新たな物語を考えるわけですから、作家性というと偉そうですが、自分が今まで育んできたことや自分の人生の中で起こったできごとの中から、大事だと思っていることを、物語の核にしました。ムーミンを読んでいると、「ええ、わかります。私もそう思っていました」と思えることがたくさんありましたから。
まずやるべきだと思ったのは、ムーミンのお話に出てくる代表的な人物たちの紹介です。ムーミンの姿はグッズなどで知っているけれど、物語を読んだことがないという人も多いのではないかと思いましたし、マグカップなどに描かれているだけのキャラクターではなく、ちゃんと根っこがある、それぞれに深い背景や価値観を持っている者たちなんだということを知ってほしいと思いました。
――松田さんがムーミンの物語を体に沁み込ませ、新たに生み出された『ムーミンのたからもの』は、「目に見えないものの大切さ」「なにかを所有することは物理的なことだけでなく、心の中に持つということ」をテーマに描かれている。
『ムーミンのたからもの』は、ムーミンが自分だけの宝物を探しに行ったものの、見つけた物はみんな、自分ではなくほかの誰かに似合うと考えてしまい、結局、自分だけの物だと思えるものを得られずに帰ってくるというお話です。でも最後にムーミンママが、それこそがムーミンだと認めてくれる。
その場面は、『たのしいムーミン一家』に出てくる「魔物のぼうし」のお話がヒントになっています。どんなお話かというと、ムーミンたちが山のてっぺんで不思議なシルクハットを拾う。ある日ムーミンがその中に隠れていたらバケモノみたいな姿になってしまい、みんなから「おまえはムーミンじゃない」と言われてしまう。でもママだけはムーミンだと認めてくれて、もとの姿に戻ることができるというもの。原作にあるこのお話が、とてもいいなと思ったので。
たとえばムーミンママのバッグは、ママのアイデンティティというか象徴の一つです。ムーミンパパやスナフキンなど、そのほかの登場人物にもそれぞれのアイテムがあるのに、ムーミンにはない。見つけることもできなかった。でも、なぜ見つけられなかったかを聞いたママが、最後に、「それこそが、あなたよ」と認めてくれる。ムーミンらしさは、目に見えるアイテムなどではないんだというところに落とし込みたかったんです。目に見えないものの価値というのは私自身もずっと大切に思ってきたことだったので、ムーミンの世界の登場人物たちを紹介しつつ、そんな価値観を伝えられたらと思って、この物語を作りました。
――完成した作品は、絵本として楽しめるだけでなく、原作への橋渡しとなる一冊だ。読んだ後に原作を読むと、ムーミンの世界がより親しみやすく感じられる。2005年の発売から20年、10万部を超えるロングセラーとなった。
絵本をきっかけにムーミンの原作を読む――そこに至る「道しるべ」や「入り口」になっていたとしたら大変光栄なことです。私自身にとっても、私が大事だと思ってきたことをムーミン世界の中に入って物語化することができた。しかも、これだけ多くの読者の方に受け止めてもらえている。ほんとうにありがたく……素晴らしい機会を与えてもらったと思っています。
――本作が好評となり、その後『ムーミンのともだち』『ムーミンのふしぎ』と3冊のシリーズ作品に。
横川さんは最初から3冊にするつもりはなく、1冊目がいい作品になったので、1冊目の完成直後にシリーズにしたいと強く思ったのだそうです。でも、それを聞いて私は「えー!?」(笑)となった。でも、とてもうれしかったです。
2作目の『ムーミンのともだち』は、スナフキンが旅立つことを寂しがるムーミンが、「待つことの楽しさ」に気づくお話です。一つのできごとをどの角度から見るか。いなくなるから悲しいじゃなくて、見方次第で、それは楽しみに変わる。どんなものごとも絶対的なたった一つの価値観や考え方があるわけではなくて、私たちがそれをどう捉えるのかにかかっています。苦しみも喜びになるかもしれない、その可能性を常に秘めているというのは、ムーミンの世界の奥にもひたひたと流れている価値観なのではないかと、私は思っています。
一つのところだけ見ていると何も見えなくなります。視座を高いところへおいて俯瞰して見たときに、全てが一つのつながりの中にあるんだということを考えられれば、私たちは必要以上に悲しんだり、苦しんだり、人を嫌いになったりしなくてすむんです。それは自分自身の幸せともつながっていくことですよね。そういう価値観を私たちが手に入れておかなかったら、人は幸せになれないと強く思っています。だから、子ども時代にそういう価値観を手に入れてほしい。それは一生ものだと思います。
3作目の『ムーミンのふしぎ』は、ムーミンが、とらえることができない色について考えるお話です。青い海の水をすくっても、ちっとも青くないのはなぜか、というところから始まって、いろいろな色の話が出てきます。
突然ですが、今、世界を支配している最も強い力はなにかと言えば、それは「経済」だと思うんです。お金持ちになるとか、なにかを要領よく、素早く、より多く手に入れることに多くの人たちが翻弄されています。ですが、それは本当に幸せと直結しているのか、立ち止まって考えたい。便利になれば幸せになれると思った時代が、かつて確かにありました。でも、ここまで便利になった今、「求めていた幸せはこれだったんだろうか?」と、みんな薄々感じていると思うんです。
スニフも、川できれいな石を見つけますが、手に入れたとたんに輝きを失ってしまう。でも、自然の中に戻したら、また輝きが戻ってくることに気づきます。私たちも欲しいものを手にしたとき、「こんなものだったっけ?」っていうことがいっぱいありますよね。そういう所有の仕方ではなく、もっと深い、もっと違う物の持ち方、出会い方があるんだということを伝えたいと思いました。
――松田さんは、ムーミンの物語を子どもから大人まで多くの方に届けたいという。
私はずっと子どもの本の世界で仕事をしてきました。子どもに向かっているということは未来に向かって球を投げていることだと思うんです。未来なので、どんなふうに届いたのか、今すぐにはその球は戻ってこない。でも、自分がこの持ち場にいられることに、誇りも責任も感じています。自分の持ち場から離れずに、やれることを懸命にやろうと思っています。もちろん、子どもだけでなく大人の心の真ん中にも、絵本という形にのせて、大切なものを届けたい。それがどんなふうに芽吹くかは一人ひとりのことですし、未来のことですから、私はおそらく、知ることはできないだろうと思うんですけど。
ヤンソンさんが書いた物語は本当に素晴らしいものです。読まないなんて、もったいない。ムーミンキャラクターのマグカップを持っているだけでなく、ぜひ物語を読んでほしいと思います。
もし今ヤンソンさんに会えるとしたら、「ありがとうございます」と、万感の思いを込めて伝えます。物語を書いてくれたこと、私たちが読めるようにしてくれたこと、そして一つの答えだけじゃなく、さまざまな可能性を私たちにくれたこと、読む人の人生と響き合い、深いところまで考えていける力を私たちにくださったことに感謝しています。この原作の力があったから、私は私が大切にしているものと共鳴させて、これらの絵本を産むことができましたと、伝えたいです。