小泉八雲の世界を味わい尽くす 翻案、アンソロジー、新訳の収穫
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の代表作といえば、何といっても1904年刊行の『怪談』だろう。現物を手にしたことはなくとも「むじな」「耳なし芳一」などの物語には、多くの人が親しんできたはずだ。
『死呪の島』などで知られる実力派ホラー作家・雪冨千晶紀の『新釈 小泉八雲「怪談」』(東京創元社)は、その名のとおり八雲の『怪談』に現代的な解釈を加え、新たな恐怖譚として甦らせた短編集。そのアレンジ具合はときに大胆、ときに意表をつくもので、「あの原作をこう書きかえたのか」という驚きに打たれる。
たとえば「白い吐息 新釈『ゆきおんな』」では、雪山から滑落した同僚を弔うために、3人の会社員が現場となった山に挑む。無事、頂上に到達した3人だったが、猛吹雪に見舞われ、ビバーク(野営)を余儀なくされた。そこに死んだはずの同僚が現れて……。八雲の原典では雪女に遭遇した2人のうち、茂作は命を落とし、巳之吉だけが生き残る。2人の生死を分けたものは何だったのか。著者はその謎に着目し、男女の心理の綾が浮き彫りになるような、血も凍るホラーミステリーを書き上げた。
全5編中、とりわけアレンジの巧さにうなったのが「午前零時の講演会 新釈『耳なし芳一』」だ。大勢の犠牲者を出したバス事故に巻き込まれ、母親を亡くした主人公は、〈奇蹟の生存者〉としてマスコミに取り上げられ、著名人となる。著作や講演活動によって豊かな暮らしを手に入れた彼のもとに、他の2人の生存者が死んだという知らせが届いた。源平の合戦を背景にした八雲の原典を、そのまま現代に置き換えるのは無理がある。それを交通事故に置き換え、抗いがたい死の運命の恐怖というテーマを浮かび上がらせたところに、見事な工夫がある。結末は分かっているはずなのに、かなり怖い作品だ。
プロローグとエピローグには八雲自身の物語が置かれ、『怪談』が扱っている恐怖が現代と過去を繋ぐものであることが示される。コンセプトに内容がともなった充実のホラー短編集であり、強くプッシュしておきたい。
田辺青蛙(せいあ)編著『シン怪談 小泉八雲トリビュート集』(興陽館)は、主にホラー・SF方面で活躍する作家7人による八雲ワールド競作集。八雲の人生を扱っている作品もあれば、『怪談』にインスパイアされた作品もあり、多彩な恐怖と幻想が楽しめる一冊だ。
峰守ひろかず「怪談嫌い あるいは一番怖い八雲の怪談について」は、父の法事のために故郷の松江に帰ってきた主人公が、子供時代に耳にしたとてつもなく怖い八雲の怪談を思い出そうとする。八雲の怪談にはロマンティックなものもあるけれど、残虐でグロテスクなものも多い。その中で特に主人公を恐怖させ、怪談嫌いにしてしまった話がある。それは何だったのかと探るうち(この過程が八雲名作怪談ガイドになっていて嬉しい)、封印されていた悲しい記憶が浮上してくる。
八雲自身を主人公にしたものでは、円城塔「シンシナティのセミ」は八雲が暮らしたヨーロッパ、アメリカ、そして日本の風景が、セミの鳴き声によって繋がるという幻想譚。真藤順丈「神々の国の旅人」では臨終の床に就いた八雲が、怖ろしくも懐かしい悪夢にさいなまれる。八雲作品の名場面が走馬灯のように現れ、後半生の伴走者であった妻・セツとの深い縁も描かれるという珠玉作だ。田中啓文「小泉八雲はなぜ八雲と名乗ったか」も八雲を主人公にしているが、こちらはもっと型破り。廃寺に移り住んだ八雲のもとに夜な夜な化け物が現れ、八雲はそれを愛用のダンベルを駆使して退治する。作者は小泉八雲記念館で八雲愛用のダンベルを見かけ、この物語のヒントを得たという。
そのほか、八雲直系ともいえる怪奇幻想譚を紡いだ田辺青蛙、八雲作品におけるゾンビに注目した柴田勝家、「雪女」の後日談をホラーテイストたっぷりに描いた最東対地と、どの作家も八雲という深い井戸から、令和の時代らしい怪談を汲み出している。ちなみに最東は今年、ラジオで流れた耳なし芳一の怪談が祟りを引き起こすという、実話テイストのホラー長編『耳なし芳一のカセットテープ』(幻冬舎)も発表している。直接的に八雲を扱ったものではないが、こちらもあわせておすすめだ。
小泉八雲作品の傑作集は多数刊行されているが、「この手があったか」と膝を打ったのが下楠昌哉編訳『雪女・吸血鬼短編小説集 ラフカディオ・ハーンと怪奇譚』(平凡社ライブラリー)だ。
「雪女」はよく知られたハーンの代表作だが、ハーンは吸血鬼にも関心を抱いていたらしく、日本にやってくる以前からこの怪物にまつわる作品や翻訳を発表している。吹雪の中に現れる美しい女性と、月夜の下をさまよう不死の存在。どちらもハーンのロマンティックな琴線に触れるものだったのだろう。本書はこの2つモチーフにまつわるハーンの文章を収め、さらにハーン以前・以後の西洋怪奇作家の雪女もの、吸血鬼ものの名作を収めている。
たとえばハーンの作品では若い男を誘惑する雪女について記した「幽霊と悪鬼について(抄訳)」や、フランス産の吸血鬼小説をハーンが英訳した「クラリモンド」などが、ハーン以外の作品では雪山に現れる魔物を扱ったアルジャーノン・ブラックウッド「雪の妖精」、魅力的な女性吸血鬼がちらりと登場するブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ(抄訳)」などが並ぶ。ハーンはしばしば日本文化のよき理解者・紹介者であると言われる。それは間違いではないが、ギリシャで生まれアイルランドで育ち、アメリカでジャーナリストとして活躍した八雲は、西洋文化のフィルターを通して日本の怪談を鑑賞している。八雲を魅了した日本の幽霊や妖怪も、彼が慣れ親しんできた西洋のホラーと響き合う存在であったのかもしれない。本書はそうした気づきを与えてくれる好アンソロジーであり、八雲文学を世界に開こうという挑戦でもある。
ハーンの『怪談』は名訳として知られる平井呈一訳(岩波文庫)をはじめとして、平川祐弘(河出文庫)、南條竹則(光文社古典新訳文庫)などさまざまな訳者が手がけている。その中でもひときわユニークな試みとして印象に残るのが、この秋文庫化された円城塔訳の『怪談』(角川文庫)だ。
見過ごされがちなことだが、日本語を書くことができなかった八雲は英語で『怪談』を執筆した。メインターゲットは英語圏の読者であり、そこに書かれた文化や風習は今以上に、西洋の人々にとって遠いものであった。円城は八雲の原文をあえて「直訳」することで、当時の読者が感じたはずのエキゾチシズムや違和感、奇妙さを取り戻そうとする。たとえば「ミミ・ナシ・ホーイチの物語」(タイトルも原題の直訳である)はこんな感じだ。
「一人前のビワ・ホウシとして、彼はなによりもまずヘイシとゲンジの伝承を歌って名を立て、彼がダン・ノ・ウラの戦いの歌を吟ずるときには、「たとえゴブリン(キジン)であろうとも涙を流さずにはいられないだろうと言われた。」
従来の流麗な訳文では見えてこなかった、新しい『怪談』の魅力が見えてくる。既訳に触れたことがある人にこそ、読んでもらいたい一冊だ。この本については過去に本連載で円城氏にインタビューしているので、ご覧いただければ幸いである。