久永実木彦さん「雨音」インタビュー 悲劇に抗う“祈り”の物語
――『雨音』は大学構内で突如発生した銃乱射事件を題材に、ドキュメンタリー映画を撮ろうとする若者たちの姿を描いた物語です。久永さんにとって初の長編小説ですが、発想の出発点を教えていただけますか。
一方的な侵略によって、命や生活が脅かされる。突然に奪われてしまう。そういったことが世界中で起きているなかで、残されてしまった人々のその後の人生にたいする思いがありました。戦争に限らず、犯罪やテロなどの大きな事件は、多くの人を巻き込んで、その後の人生を決定的に変えてしまう。人生が否応なく支配されてしまうんです。そこに暴力ではなく愛をもって抵抗するような物語を書きたい、というのが出発点でした。
――そうした問題意識は以前からお持ちだったんでしょうか。それとも昨今の世界状況から生まれたテーマですか。
どちらもあると思います。僕はホラー映画やパニック映画の大ファンなんですが、恐怖や混乱を娯楽として楽しむことに、ときどき罪悪感のようなものを覚えてしまうこともあります。世の中が悪くなるほど、そういった気持ちは強まりますよね。ホラー映画やパニック映画が好きだからこそ、そこに向き合わなくてはという思いがあったのかもしれません。
――多くのホラーファンにとって、久永さんといえばファンタスティックな設定の短編を書かれる作家というイメージ。今回は大学での銃乱射事件という現実味のある事件を扱っているので、やや驚きました。
自分ではそれほどかけ離れたものを書いたつもりはないんです。これまで確かに怪獣や吸血鬼、何万年も生きるロボットなどを題材にしてきましたが、そこで描きたかったのはあくまで登場人物の心の動きや選択、あるいは人生そのものです。その点は『雨音』も変わらないので、物語を構成する要素の違いはあっても根本的なところでの違いはないのかなと。それに読んでいただくと分かるんですが、『雨音』はホラー的な要素も含んでいますし、幻想小説として解釈できる余地もあります。普段からあまりジャンルというものを意識せず書くのですが、そのあたりも含めて、僕の世界の捉え方が反映された作品になっていると思います。
――東京郊外の街で起こった〈奥石大学銃乱射事件〉では、キャンパスに乱入した銃撃犯によって32人もの命が失われます。現実にも起こりうる不条理な暴力を扱ううえで、どのような点に留意しましたか。
まず作中で扱われる事件が、あらゆる意味で人生を奪うものであるということ、それを明確に書こうと決めていました。〈痩せ烏〉と呼ばれる犯人が英雄視されるような物語であってはいけないし、題材として消費的な娯楽に傾けてもいけない。とはいえ娯楽性の部分については物語として描く以上、自己矛盾を抱えることにもなるんです。だから、僕も執筆中はずいぶん迷いや葛藤がありました。これはそのままスミヒコやキミドリさんの苦悩という形でも表現されています。
――大学の映画同好会に属するスミヒコは、後輩たちの命を奪い、親友に重傷を負わせた事件のドキュメンタリー映画を撮ることを決意します。このような展開にしたのはなぜでしょうか。
題材に向き合ううえで必要な展開でした。物語では撮影が進むにつれて事件の中心に迫っていきますが、そうすることで被害者や遺族と一口にまとめるのではなく、一人ひとりそれぞれの人生があることを描きたかった。また、スミヒコの語りにもありますが、記録ということでもあります。事件直後でなければ撮ることのできない混乱を記録として残すことに、なにか意味が生まれるかもしれない。一方でその行為は遺族の心を傷つけたり、死者の尊厳を踏みにじったりすることにもなりかねない。スミヒコたちはその狭間で葛藤するんです。
――同好会の先輩・キミドリとともに、事件の被害者や遺族へのインタビューを開始するスミヒコ。しかしそれは簡単なことではありません。息子を奪われたある男性は、「この映画をつくることに、どういう意味があるのか」「それは、だれかを救うことになるのだろうか?」とスミヒコに問いかけます。
僕の自問自答が投影されたシーンです。ドキュメンタリーを作ることに意味があるのか、ひいては私たちの人生には意味があるのか、という問いかけでもある。簡単に答えを出せる問いではないですよね。理不尽に奪われる人生に、意味はあるのだろうか。けれど生きるのは無意味だとも、僕は考えたくない。祈るような思いと無力感の両方があります。
――それと前後して、スミヒコはベニという風変わりな女性と知り合いになります。追悼式の会場にライフルの銃弾を持ち込み、〈痩せ烏〉の思想に共鳴するような発言をしてみせるベニ。やがて映画の撮影スタッフに加わった彼女は、物語の中で重要な役を演じることになります。
書きながら、ベニというキャラクターを読者にずっと覚えていてほしいという気持ちが強まっていったように思います。この小説は「雨音は絶えることなく、鳴りつづけている」という一文から始まります。雨音という言葉にはたくさんの意味が込められていて、ひとつは銃声の比喩でもありますが、この世界で止むことなく続いている悲劇そのものの喩えでもある。雨音の鳴りやまない世界だからこそ、彼女の人生がどうだったかを忘れずに覚えておいてほしいと。
――やがてスミヒコとキミドリは、それぞれベニに心惹かれるようになる。切ない恋愛小説の側面もありますね。
デビューした当時から恋愛について書きたいという思いがありました。それが“悲劇に愛で抵抗する”というテーマに繋がったという感じです。ベニは〈痩せ烏〉の思想に共鳴するような、とても受け入れられない発言をします。それはもちろん誤ったこととして書いているんですが、それをただ糾弾するのではなく、スミヒコたちが時間をかけてベニと関係を構築していくという展開を大切にしました。そうでなければ、分断ばかりが残ってしまう。恋愛小説であると同時に、もっと大きな意味での愛の話でもあるのかなと思います。
――久永さんはデビュー作「七十四秒の旋律と孤独」の時点ですでに愛をテーマにされていましたよね。
愛というのは大切なものだと思います。もっとまっすぐそれを主張してもいいんじゃないか。僕は悲観的なところもある人間ですが、だからこそ愛を忘れてはいけないなと。
――後半、ベニの秘密が明らかになるとともに、人生を支配するさまざまな“呪い”からどうすれば自由になれるのか、という難しい問題がクローズアップされてきます。
呪いを解くには深い愛情が必要だと思います。それも焦ってはだめで、じっくり時間をかけて取り組まなくてはならない。とはいえ各自の持ち時間は有限なので、なかなか思うようにはいかないのですが。『雨音』には食事をするシーンがよく出てきますが、これは愛情のひとつの形なんです。丁寧に生活を積み重ねることが、憎しみや悪意、それらが生み出す暴力への抵抗になっている。美味しくご飯を食べることは、生きていくうえでの基本という気がします。いずれにせよ人生の呪いを解くのは簡単なことではないですね。安易な救いのようなものは存在しないんです。これからも考えつづけていかなくてはならない問題だと思います。
――世界では悲惨な事件が日々起こっています。『雨音』はフィクションに何ができるのか、という問いを含んだ作品のようにも感じました。
現実に起きているさまざまな出来事を見聞きすると、フィクションにできることなんてあるんだろうかと思ってしまうこともあります。でも僕は人生の辛い局面をフィクションによって何度も救われてきたし、自分の書く物語にもそういう祈りがこもっています。『雨音』は暗い物語なので、最近は読者のみなさんに薦めていいものか分からなくなることもあるんですが……。それでも、陰鬱な中にも優しさや光を感じたという感想をいくつかいただけて、書いてよかったと思っています。
――SFの新人賞でデビューされて以降、ホラーにミステリにとジャンルの枠を超えた活躍をされてきましたが、そんな立ち位置についてはどう思っておられますか。
作家としてのキャリアの出発点はSFですが、2冊目の『わたしたちの怪獣』はゲームクリエイター・小島秀夫さんの〈ヒデミス!2023〉に選ばれたり、『このホラーがすごい!2024年版』のランキングに入ったりと、モダンホラーの短編集としても評価していただきました。そして昨年はコメディタッチのホラー短編「黒い安息の日々」で日本推理作家協会賞をいただいて、いよいよなんのジャンルの人かわからなくなってきた感があります……(笑)。先ほども言ったようにあまりジャンルを意識して書いていないので、こういうポジションも悪くないと思っています。ただ怪奇幻想やホラー的なものはすごく好きなので、これからも取り入れていくつもりです。スティーヴン・キングもそうですよね。スーパーナチュラルなホラーも書けば、犯罪小説もSFも書く。でも底に流れるテーマは一貫しています。
――聞くところによると、久永さんはかなりのスティーヴン・キングファンだそうですね。
大ファンです。10代の頃に『ペット・セマタリー』を読んで以来ずっと追いかけていて、勝手に心の師匠と呼んでいます。どの作品も好きですが、特に影響を受けたのは『IT』と『ザ・スタンド』ですね。僕の人生観を作ったといっても過言でありません。2作とも90年代にABCで制作されたミニシリーズのドラマがあって、そちらも素晴らしいんです。
――悪魔崇拝に熱中する少女たちをコメディタッチに描いた「黒い安息の日々」はイギリスのバンド・ブラックサバスがモチーフですし、『雨音』には多くの映画が登場します。音楽や映画などのポップカルチャーは、久永作品に欠かせない要素ですね。
書いていると自然に溢れだしてしまうのを、なんとか自制して今くらいのバランスに押さえこんでいるという感じです(笑)。僕の尊敬する作家はキングと村上春樹なのですが、どちらも音楽についてよく書く作家です。二人の作品は丁寧に描かれる日常と丁寧に描かれる非日常が隣り合っているところに共通点があって、実在のバンドなどについての言及が丁寧な日常を描写する支えのひとつになっているように感じます。自分にとっても、日常を質感のあるものとして描くためにポップカルチャーは重要な要素なんです。日常を丁寧に描くといえば、僕がもっとも好きな映画監督のM・ナイト・シャマランも同じですね。
――『雨音』にもシャマランの映画がいかに素晴らしいか、スミヒコが熱弁をふるうシーンがありますね。
あの場面には僕の思いも反映されています。スミヒコの偏愛する『レディ・イン・ザ・ウォーター』はさまざまな感想のある作品ですが、僕はあんなに優しい映画はないと思っています。
――『わたしたちの怪獣』に収められた短編は優れたホラーですし、シリアスな題材を扱った『雨音』にもホラー的な側面があると思います。久永さんご自身は、ホラーというジャンルについてどうお感じになっていますか。
ジャンルを気にせず書いていると言いつつ、そこはキングの大ファンですから、ホラーはもちろん大好きです。ホラーは恐怖を描くのと同時に、孤独や悲しみ、ときにはおかしみも語ることのできるとても懐の広いジャンルだと思います。それにキングの長編やシャマランの映画がそうであるように、ホラーだからこそ際立つ、人間の善性のようなものがありますよね。キングの『アウトサイダー』という作品に「大宇宙には果てがない」というお気に入りの一節があります。未知というのは恐怖のひとつの側面だけれど、そこにはきっと愛や希望もあるはず。そう感じてもらえるような物語を、これからも書いていけたらと思っています。
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