輝く記憶、5年ぶりの再会 青来有一
5年ぶりにようやくその女性に会うことができました。施設の職員に付き添われていましたが、足取りはしっかりして、セーターにパンツルックのリラックスしたスタイルに髪はショートカット。顔もからだつきも心持ちふっくらしたこともあるのでしょう、前より若々しく感じましたが、「母も81歳になります」といっしょに出迎えた娘さんが教えてくれました。
彼女の家族や孫世代の親族の集まりに顔を出す機会があり、今は施設で暮らす彼女もちょっと遅れて顔を出すというので、みんなで待っていたのです。
「姉さん」と呼びかけたら「まあっ」と目を輝かせて笑顔でうなずいてくれて、彼女を「お母さん」と呼び、「おばあちゃん」と呼ぶ人々がいたので、その場ではそれだけでしたが、5年ぶりの再会に満足していました。
娘さんの話では、相手に合わせてにこにこするものの、なにもわかっていないらしく、愛想よく応じてはいても「ほんとうは娘のわたしのこともわかっていないのです」と淡々と教えてくれました。
*
彼女は私の父方の親類で、父母とは14、5歳の年齢差があります。私が生まれた当時、高校生だった彼女は、乳呑み児の私をよく抱いたり、おんぶしたりしてくれたそうです。もちろん、こちらはなにも覚えてはいません。ただ、三毛かキジかは忘れましたが、父の実家に「ミーコ」という名のネコがいたことをぼんやり覚えていて、以前、その話をしたら「ああ、ミーコねえ」と、忘れていた一匹のネコが記憶の薄暗がりからふいに現れたように彼女も驚いていました。互いに忘れてしまっても消滅しないつながりがあるのかもしれません。
小学生の頃、サンダル履きで磯遊びに行き、足の裏を傷だらけにして帰ってきた時、ちょうど訪ねてきていた彼女が、燃えるようにしみる赤いヨードチンキを足裏に塗ってくれたこともありました。
就職したばかりの頃、夏の夕方、離島にあるビヤガーデンに向かう連絡船のデッキでばったり出会ったこともあります。アルバイト先の職場の方々との飲み会らしく、明るくチャーミングな女性でしたから、どこでも人気者だったはずです。
家は西向きの高台にあり、山の端に沈んでいく夕日の残照をながめ、今日も一日、平穏に暮らせたことへの感謝で胸がいっぱいになって「台所でね、こっそり手を合わせるのよ」という話は、港町の夕暮れの景色とともにこれはくっきりと記憶に残っています。
母の夜ごとの長電話にもつきあってくれ、認知症がひどくなって母が施設暮らしになるとなんども訪ね、いっしょに話をしたこともありました。母は彼女に会ったことはすぐに忘れますが、顔を見たり、電話で声を聞くたびに母の記憶はすぐにもどってきて、ふたりはいつものように楽しそうに語り合うのでした。
*
私たちの交流はコロナ禍で途絶えました。母がいる施設は面談禁止となり、制限がゆるんだ頃には、今度は彼女の認知症がひどくなり、まもなく彼女の夫が腰を痛めたのをきっかけに、高台の家を離れ海辺の施設で暮らすようになったのです。
今はほとんど記憶を失い、新しい記憶も積み重なることなくすぐに消えるらしく、母のことももう覚えていないようですが、天性の明るい人柄と笑顔は変わりません。
孫だという若い女性が、彼女の初の曽孫の顔を見せると、身についた自然な動きで、彼女は手をさしのべて赤ちゃんを抱き上げました。
なれた手つきで小さな頭をささえ、顔を近づけ微笑(ほほえ)む姿に、遠い日の十代なかばの彼女と乳呑み児だった自分の姿をなんとはなしに想像するのでした。=朝日新聞2025年1月13日掲載