愛媛編 若者に愛される名作の宝庫 文芸評論家・斎藤美奈子
愛媛県は名作の宝庫である。特に有名な作品は、夏目漱石『坊っちゃん』(1907年/新潮文庫など)と司馬遼太郎『坂の上の雲』(1972年/文春文庫)だろう。
前者は松山の中学に赴任した教師が奮闘する国民的文学。後者は松山に生まれた軍人、秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟と俳人の正岡子規の3人を主役にした大河小説だ。2作の舞台は同じ明治期で、『坂の上の雲』は日露戦争の終結で幕を閉じ、坊っちゃんは日露戦争と推定される戦争の祝勝会直後に四国を去っている。1905(明治38)年の話である。
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漱石と坊っちゃんが去り、時が流れた後も、愛媛県は若い読者に愛されるベストセラーやロングセラーを次々にたたき出してきた。
筆頭は空前の大ヒット作となった片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001年/小学館文庫)だろう。時は1990年ごろ。舞台となった町のモデルは真珠の養殖で知られる宇和島市。白血病で死んだ17歳の恋人アキへの思いを残された「ぼく」が語る、平成きっての純愛小説だ。クライマックスは2人が無人島で過ごした一夜だろう。〈真っ青な夏の海が広がった。あそこにはすべてがあった。何も欠けていなかった〉。海辺の町の、悲恋の物語に泣いた人は多かった。
敷村良子『がんばっていきまっしょい』(1996年/幻冬舎文庫)は坊っちゃん文学賞の大賞受賞作。旧制中学時代に漱石も教鞭(きょうべん)をとった松山の名門高校の新設女子ボート部を描いた部活小説の先駆的作品だ。〈波打ち際まで走って、梅津寺(ばいしんじ)方向へスタートする。太陽はほとんど頭の真上にあって、日差しが肌に痛い〉。ここにも海がある。スポーツ少女たちの青春である。
さらに、海辺の物語。凪良(なぎら)ゆう『汝(なんじ)、星のごとく』(2022年/講談社文庫)は23年の本屋大賞受賞作。本州(広島県尾道市)と四国(愛媛県今治市)の間の島々を橋でつないだ「瀬戸内しまなみ海道」の今治側の島を舞台に、島外から越してきた櫂(かい)とこの島で育った暁海(あきみ)の15年を描く。それぞれ問題を抱えた親と暮らす2人は17歳で出会って将来を誓う仲となるが、上京した櫂は成功し、島に残った暁海との距離は開いていく。島というロケーションの演出効果は抜群。『セカチュー』で泣いた人はまた泣くよ。
歴史をさかのぼると、中世、しまなみ海道が通る芸予諸島一帯は、村上海賊が支配する海域だった。
14年の本屋大賞を受賞した和田竜(りょう)『村上海賊の娘』(2013年/新潮文庫)は三つの島の村上家(因島〈いんのしま〉村上、来島〈くるしま〉村上、能島〈のしま〉村上)のうち最後まで独立を保った能島村上家の当主武吉の娘・景(きょう)を主人公にした爽快な歴史小説だ。180センチの長身と南蛮人のような容貌(ようぼう)。景はヒロインというよりヒーローで、毛利方と織田方が海上で激突した木津川合戦(1576年)への参戦を希望する。父は認めざるをえなかった。〈景よ、行け〉〈我が娘が戦に赴けば、当方の勝利疑いなし〉
というように海のイメージが強い愛媛県は、半面、高知県境に急峻(きゅうしゅん)な四国山地が連なり、西日本最高峰の石鎚山を擁する県でもある。
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井川香四郎『別子(べっし)太平記』(2017年/徳間文庫)は、そんな山の物語。1691年(元禄時代)に採掘がはじまった別子銅山(新居浜市)の200年余を追った実録的歴史小説だ。標高1千メートルを超す山奥の400人ほどの集落だった別子は銅山の開坑で一躍3千人の町に膨らむが、鉄道敷設(1893年)までの道は遠かった。鉱山の近代化にかけた人々の物語である。
ノーベル文学賞作家、大江健三郎も、山に囲まれた旧大瀬村(現内子町)で育った。『M/Tと森のフシギの物語』(1986年/岩波文庫など)の世界である。子どものころ祖母に聞かされた「谷間の村」の創建神話。〈僕は森のなかの盆地の神話と歴史の言いつたえに影響されて生きて来ました〉とはどういう意味なのか。迷宮のような大江ワールドに読者は幻惑されるだろう。
山の中の別子銅山は新居浜の港を発展させ、「谷間の村」の伝説には海賊の娘が登場する。山と海の距離が近い。それも愛媛の魅力。=朝日新聞2026年2月7日掲載