渡辺優さんの読んできた本たち 一番読み返した「わたしを離さないで」きっかけはGARNET CROW
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
渡辺:一番古いとなると、やはり絵本の記憶が強いです。たくさん本を買ってもらうというよりは、よく近くの図書館に連れていってもらっていました。借りられるマックスの冊数まで好きな絵本を借りて、夜寝る前に母が読んでくれるのが習慣でした。字が読めるようになってからも絵本が好きで、自分で読んでいました。
――図書館では自分で絵本を選んでいたのですか。
渡辺:そうですね。ジャケ買いのように表紙で選んだりもしていました。あと、同じものを何度も読むのが好きな子供だったんです。「14ひきのシリーズ」という、ネズミのシリーズがありまして。12冊くらいあるなかで、私は『14ひきのおつきみ』と『14ひきのあきまつり』の2冊を推していて(笑)、そんなに借りるなら買えばいいのに、というくらい何度も借りていました。食べ物がたくさん出てくるので、その絵を見るのが好きだったんだと思います。添えられた文章も美味しそうな感じに書かれてあるので、どはまりして読んでいました。
――本好きになったのは、親御さんやごきょうだいの影響もあったのでしょうか。
渡辺:兄が一人いて、小さい頃は一緒に絵本を読み聞かせてもらっていた気がするんですけれど、小学校に上がってからは兄は読書に興味はなさそうでした。両親はともに本が好きで、家にはそれぞれの本棚がありました。そこから勝手に本を手にとっていました。小学生の頃、西原理恵子さんの『まあじゃんほうろうき』を読んだことを憶えています。絵が多いから、絵本と同じラインの本だと思ったんです。
――理解できていたんでしょうか。
渡辺:どうでしょう。麻雀という大人のゲームの話だなという印象を持っていたと思います(笑)。
――小学校に上がってからは、学校の図書室も利用されたのですか。
渡辺:図書室が大好きでしょっちゅう行っていました。教室の後ろにも学級文庫みたいに本が並んでいたので、それを休み時間に読みすぎて友達に怒られました。休み時間は貴重な交流できる時間なのに私が読書をしているので、「こっちと喋れよ」みたいなことを言われたんです。自分でも「確かにそうだな」と納得し、本は家で読むようにした記憶があります。
――自他ともに認める本好き、みたいな感じだったんですね。
渡辺:そうですね。本はもの心ついた時から唯一続いている趣味というか。
――自分でお話を作ったり、想像したりすることはあったのですか。
渡辺:それが一切なくて。読んで楽しい本というものが自動的に存在していると思っていて、それを誰かが書いているという意識すらなかったです。なので自分がそれを作り出すという発想もなかった気がします。
――国語の授業は好きでしたか?
渡辺:好きでした。"活字好きの人間あるある"だという気がするんですけれど、最初に教科書が配られた時に、国語の教科書は読み切ってしまっていました。国語の授業が好きだったというよりは、あまり授業を聞かずに教科書を読んで一人で楽しんでいて、そういう意味で国語の授業は好きな時間ではありました。
――作文や読書感想文はいかがでしたか。
渡辺:作文はわりとノッてくると得意だったんです。授業中、「書け」と言われてから最初の30分くらいは書けずにぼんやりしていて、書き始めると原稿用紙が足りなくなって先生にもらいに行く、という感じでした。
でも、読書感想文は苦手だった記憶があります。感想なんて楽しかったとか面白かったとかくらいしかないよと思っていたので、感想文にまとめあげるのは苦手でしたね。
――次から次へと読む感じだったようですが、印象に残っている作品はありますか。
渡辺:最初に自分の中でタイトルも作家も憶えた児童書は、ミヒャエル・エンデの『モモ』でした。たぶん小学校1年生くらいだったと思います。それは自分がどこで読んでいたかも憶えています。アパートの畳の部屋のタンスの上に『モモ』が置いてあって、勝手に取って読み始めたんですよね。それが文字の多い本を最初に読んだ記憶かもしれないです。
確か、母が私のいとこから借りたか何かで家にあったんです。普段の父と母の読書傾向は本当に大人向けの本ばかりだったので、珍しいタイミングで出会えたと思います。
――国内外問わず、なんでも読む子供だったのですか。
渡辺:そうですね。『モモ』の次に手に取った児童書がたぶん、「ハリー・ポッター」シリーズなんです。第1巻の『ハリー・ポッターと賢者の石』が日本で発売されたのが、私が小6か中学に入るくらいで、主人公と同世代ですごく共感できたんですね。ものすごくはまりました。それからは新作が出るたびに読んで追いかけていました。
――一大ブームだったと思うのですけれど、周囲も読んでいました?
渡辺:読んでいる子は周りに1人か2人くらいしかいなくて。新刊が出るたびにその子たちとその話で盛り上がっていました。2、3年遅れて映画になってからは、もっと多くの子とハリー・ポッターの話ができるようになりましたけれど。でも、私は過激な原作信者じゃないですけれど(笑)、「映画はちょっと違うんだよな」みたいな気持ちがありました。
映画では原作を端折られてしまうのがどうしても気になるんです。あの場面がいいのになんで削るんだろう、みたいな気持ちが強くて、「映画じゃ無理なんだよな」と思っていました。
――厳しい目を持っていたんですね。
渡辺:思春期のほうがこだわりが強かったというか、過激派なところがあって。ちょっと気に入らないと嫌だ、となってしまうタイプだったと思います。でも、その頃も本は自然発生しているものだという感覚で作者がいると思っていないので、読んで面白くなかったとしても、「これはそういう本なんだ」「自分には合わなかったな」と思うくらいでした。本に対しては「なんでこうしないんだ」みたいな気持ちはなかったです。
原作のある映画に対しては違ったのは、本を元にして人が作っているのが分かりやすかったせいもあると思います。中学時代、小説の『バトル・ロワイアル』がすごく好きだったんですけれど、それも映画を観て「あ、削られている」と気づいて憤りを感じていました。
――ご両親の本棚で、『まあじゃんほうろうき』以外に読んで面白かったものはありましたか。
渡辺:さくらももこさんのエッセイですね。母が『もものかんづめ』とか『さるのこしかけ』と『たいのおかしら』や、『まる子だった』など後続のシリーズもすべて持っていて、それをすごく楽しく読みました。エッセイというものを読んだのはたぶんそれが初めてで、エッセイは面白くて笑えるものなんだという認識で生きていました。
それと、今思い出したんですけれど、小学生時代に母が天童荒太さんの『永遠の仔』を読み始めて、「すごく面白いから」といって貸してくれたんです。それで私も読み始めたんですけれど、途中で急に母が「これはまだ読んじゃ駄目」って言い始めて。「高校生になったら読んでいいよ」と言われたんですね。そっちが薦めたのに、ここから面白くなりそうなところで急に止められるなんて納得いかないと思って反発をおぼえました。でも、高校生になってから読んでみたら、実の親からの性的虐待など重たいテーマが書かれてあって、まあ母が止めたのもしょうがないかな...とちょっと納得しました。親からストップがかかったのはその一件だけで、それ以外はわりとオープンになんでも読ませてもらっていました。
――漫画は読まれましたか。
渡辺:すごく好きでした。幼稚園の頃は「なかよし」派でした。「りぼん」派はおしゃれな子たちというイメージで、「なかよし」派はわりとオタク傾向が強かった気がします。CLAMPさんの『魔法騎士レイアース』のような魔法少女系というか、女の子がファンタジーの世界で戦う漫画がすごく好きでした。
その後、兄の影響で少年漫画を読むようにもなりました。なので、基本的に異世界ファンタジーばかり読んできたかもしれないです。現実世界で恋愛をする女の子たちが出てくる漫画を読み始めたのは高校、大学に入ってからくらい。小中学生時代はもう、兄が持っている異能力バトル系の漫画ばっかり読んでいました。いまだに『HUNTER×HUNTER』がめちゃめちゃ大好きで、今も新刊が出たら買って読む漫画のひとつです。
――中学生時代、小説はいろいろ読みましたか。
渡辺:中学高校はわりと読書から離れていて、そこまでたくさん読んだ記憶がなくて。『バトル・ロワイアル』にどはまりして、「ハリー・ポッター」は新作が出たら読んで、あとは本屋さんにふらっと入って、目についたものをジャケ買いしていました。それで辻村深月さんの本も買って読みました。その後、大学に入ってからいちばん仲良くなった友達がすごく本を読む子で、辻村さんの大ファンだったんです。その子が持っている辻村さんの本はほぼ借りたので、その時点で刊行されていた作品は全部読んだんじゃないかなと思います。ただ、中高生の頃はそこまで本を読んでいた記憶がないんです。
――なにか他のことに打ち込んでいたのですか。
渡辺:中高時代はテレビゲームにはまって、そればっかりになっていた時期でした。兄もゲームオタクだったので、その影響をもろに受けてずっとゲームをやっていました。中学時代、最初に入った部活が剣道部だったんですけれど、早く帰ってゲームやりたいのになんで部活をやらなくちゃいけないんだろうって気持ちが強すぎて。たしか2年生の最初くらいに辞めて帰宅部になって、晴れてゲーム三昧の中学時代を送ることができるようになって嬉しかった記憶があります。
――どんなゲームが好きだったんですか。
渡辺:小学生の頃から「ポケモン」の赤と緑はやっていたんです。中高生の頃は「ファイナルファンタジー」とか「バイオハザード」とか。あ、あと「幻想水滸伝」というゲームをめっちゃやっていたことを思い出しました。もう、ゲームのせいで私は目が悪くなったと思っています。
――ところで、剣道部に入ったのはどうしてだったのですか。
渡辺:一応、部活は必修だったんです。ただ、平成のその頃は、運動部に入らなければ人ではないみたいな空気があって...。
――この連載で他の方からも同じようなことを聞いたことがありますが、そんな空気があったというのが驚きです。
渡辺:本当は美術部に入りたかったけれど、運動部か吹奏楽部に入らないといじめられると思ってしぶしぶ運動部に入ったんです。そういう空気があったのって、私の世代だけなんでしょうか。高校も部活必修だったんですけれど、図書部に入りました。部活に入りたくない人のための部活がちゃんと用意されていて(笑)、それが図書部だったんです。月に一回くらい図書委員の代わりに図書室の受付に入る、みたいな部活でした。
――高校時代は、小説はぜんぜん読まなかったのですか。
渡辺:学校帰りに本屋さんに寄った記憶はたくさんあるんです。漫画を買ったり、文庫本コーナーで本を選んだりしたことは憶えています。文章を読むのが好きだったので、立ち読みして、でも一冊を読み切るでもなく...。小説が好きというより、活字が読みたいだけだった気もします。
その頃に、森博嗣さんの小説を手に取ってパラパラ立ち読みしたと思うんです。大学になってから森博嗣さんにすごくはまって読んでいたら、「あれ、この文章読んだことがあるな」と気づいたことがあって。高校時代立ち読みしていた本はこれだったんだ、と思いました。
――その頃はまだ、小説家になろうとは考えてなさそうですよね。
渡辺:真剣には考えていませんでした。でも、なりたいなとは思っていた気がします。現実的に目指す職業じゃなくて、「石油王になりたい」とか「ハリー・ポッターの魔法学校に行きたい」と同じような空想上のラインで「小説家になりたい」と思っていました。だから、その頃にはもう、小説は自然発生するものではないと気づいていたと思います(笑)。
――振り返ってみて、どういう子供だったと思いますか。活発だったのか、それとも。
渡辺:小学生くらいまではすごく活発だったと思います。兄がふたつ年上で、近くに住んでいるいとこもふたつ上で、ふたつ上同士が遊んでいるところに混ざろうと必死でした。年上の子たちに追いつきたいという、ハングリー精神というか闘争心みたいなものがすごく強い子供でした。ものすごく活動的で、小学校の時は学芸会では毎回主役をやりたがるし、小学校三年生で初めてクラス委員制度が導入された時も立候補してクラス委員をやりました。みんながやりたがらないことをやりたがるし、劇では一番いい役をやりたがる感じでした。
でも、なぜかそのマインドが中学生で失われたんです。自分でも何があったんだろうって思うくらい性格が変わって、できるだけ目立ちたくないという方向になりました。
――デビュー作の『ラメルノエリキサ』を読んだ時、作中に何度も「クソガキ」という言葉が出てきたりして過激な印象だったので、お会いしたら渡辺さんがすごく静かな雰囲気の方だったのでギャップを感じた記憶があります。
渡辺:引っ込み思案になってからも闘争心はどこかに残っていて、小説を書いているとそれが出てくるような気がしています(笑)。
大人のちょっとした間違いをすごく言いたがる子供だったんです。嫌いな先生はすごく嫌いで、「大人って汚い」って思っているようなタイプの子供でした。高校時代はだいだいの先生が嫌いで、常に心の中で文句を思っていたんです。私は同級生のみんなも同じように、あの先生のこういうところがおかしい、とイライラしているだろうなと思いながら生きていたんですけれど、それを友達に喋った時に、「え、いい先生じゃん」みたいに言われてしまって。イライラしていたのは自分だけだったのかと衝撃を受けました。
――では、表立って教師に反発するようなことはせず...?
渡辺:私の高校時代は平成ど真ん中の、男女平等への過渡期みたいな時期だったんです。学校の掃除当番も、男子はこのエリアで、女子は職員室で先生たちが使った食器を洗う、といった割り振りがされていたんですね。私はそれに対してラクでいいな、くらいにしか思っていなかったんですけれど、友達が「これはすごくおかしなことだ」と言い始めて。「性別によって分けられるのは意味が分からないし、職員室の掃除なんて先生が自分でやるべきだ」と言うんです。人に言われると「なるほどな」と思いがちな人間だったので、私も本当にその通りだなと思って。友達が「先生に言いに行こう」と言い出して、本当に先生に不満をぶつけに行ったんです。でも、いざ先生の前に来たら、友達が一言も喋らなくて、私が言わなきゃいけない空気だなと感じて。それで、すごく頑張って主張したというのが、高校時代の数少ない思い出のひとつです。
――そのあと友達は何か言ってましたか。
渡辺:「何も言ってくれなかったじゃん」と言ったら、「そっちがめちゃめちゃ喋りだすから、こっちがなにか言う暇がなかった」って言われました。もしかしたら私がスイッチはいっちゃっていたのかもしれません。なので、私はスイッチを入れてもらうと頑張れるタイプかもしれないです。
――結局、職員室の掃除の件はどうなったのですか。
渡辺:先生もちゃんと聞いてくれて、職員室の掃除はなくなって、男子が掃除していたところを女子もやるように改善されたんです。それで「おおっ」と思った記憶がありますね。ちょっとした成功体験じゃないですけれど、嬉しかったです。
――高校卒業後、進学先はどのように選んだのですか。
渡辺:もう本当に自我がないというか。特に将来の夢もなかったので、とりあえず県内の大学に行っておこうと思いました。その頃は海外への憧れが若干あったので、国際文化学科という、今はなくなった学科に入りました。
――海外への憧れというのは。
渡辺:たぶん、英語が話せるのって格好いいな、くらいのスタート地点だったと思います。それと、高校生の時からうっすらと、将来自分が週五で一日八時間働ける気がしなくて。だから職場に通う仕事でなく、家でできる仕事とか、フレキシブルな仕事に就きたいと考えていたんです。それで、とにかく英語を話せれば翻訳家や通訳といった、一般企業に就職するのではない仕事に就けるかなと目論んだ気がします。
それと、海外ではバカンスが二か月とれると知って、羨ましすぎると思って。日本の社会人の夏休みの少なさに絶望していたので、いっぱい休みが取れる海外に行って働きたい、と思っていたことを今思い出しました。
――週五で働ける気がしなかった、という話は以前もおうかがいしましたよね。たしか、朝がめちゃくちゃ弱くて...でしたっけ。
渡辺:はい。私、実は高校を二年生で一回退学しているんですが、その理由が、本当に朝が辛すぎるということだったんです。今にして思えば、十代の起立性のなにかで、朝が弱いホルモンバランスだったのかなという気がするんです。本当に起きられなくて、もう無理だとなって一回高校を辞め、で、高校卒業の資格を取って、同級生と同じタイミングでしれっと大学に入りました。
高校ですら毎日通うのがこんなに嫌なのだから、会社員になって朝から晩まで働くなんて体力的にも無理だろうと思っていて、そうではない仕事につかないと生きていけないという危機感もちょっとありました。
――その後、朝起きられるようにはなったのですか。
渡辺:それ以降、週五で朝早起きする生活をたぶん一回もしていないと思うんですよね。だから確かなことは言えませんが、高校時代に比べたら起きられるようになった気がします。
早起きも、一日とか二日だけなら苦痛じゃないんです。それを習慣にしなきゃいけないとなると気力が続かないので、高校時代以降は長いスパンで早起きし続ける生活を避けてきました。大学の授業を選ぶ時も、必修以外は絶対に一限を避けていました。
――国際文化学科では、英語もみっちり勉強できたのですか。
渡辺:私の通っていた大学には、国際文化学科とは別に英文科もあったんですね。英文科はもう英語をみっちりやる科でしたが、国際文化学科は、ちらっとタイ語をやったりスワヒリ語をやったりとかしていて。私、スワヒリ語の成績がすごくよかったんですけれど、今はまったく憶えていないです。
――大学時代の読書生活はいかがでしたか。
渡辺:やっと読書に戻ってきました。友人がすごい読書家だったというのが一番のきっかけでした。
――さきほどおっしゃっていた、辻村深月さんを愛読しているご友人ですね。
渡辺:そうです。その友達の影響でいろいろ読みました。辻村さんの他には、伊坂幸太郎さんも大学時代におおむね読み倒したと思いますし、森博嗣さんの作品も読みました。ジャンルにこだわらずに本屋さんでパラパラ見て選ぶのが好きだったので、海外小説も結構読みました。その頃に読んだ本のほとんどはもう作者さんもタイトルも憶えていないけれど、鞄には常に一冊本が入っていました。
とにかく読めていればいいというか。読書に何かを求めているというより、音楽を聴いたりするのと同じ感覚で、習慣として読んでいる感じでした。
――大学時代の読書で「これが好きだった」というものを挙げるとすると?
渡辺:書名を挙げるとしたら、森博嗣さんの『スカイ・クロラ』シリーズですね。大好きになりすぎて、一瞬だけ、パイロットを目指そうと思って要件を調べたことがありました。ちょうど大学3年生くらいで、就活しなきゃいけない時期で、ちょっと現実逃避でもあったんですけれど、ワンチャンなれないかなと思って。とにかく体力が必要だと知って諦めました。
――そういえば、『女王様の電話番』刊行記念の齋藤明里さんとの対談で、サガンの『悲しみよ こんにちは』の話をされていましたよね。
渡辺:ああ、『悲しみよ こんにちは』を読んだのも大学生の頃です。GARNET CROWというバンドが大好きだったんですけれど、作詞担当の方が『悲しみよ こんにちは』や、カズオ・イシグロさんの『わたしを離さないで』といった海外小説をベースに曲を作ったりされていたので、元ネタの本を読もうと思って読んだんです。それでカズオ・イシグロさんにはまって結構読んでいました。
――カズオ・イシグロはどの作品が好きでしたか。
渡辺:最初に読んだ『わたしを離さないで』が大好きでした。いちばん読み返したのはこの本だった気がします。
――好きな本は何回も読み返されていますが、再読ってどういう楽しみがあると思いますか。たとえば『わたしを離さないで』は途中で驚きの事実が判明しますが、再読する時はもうそれを知りながら読むわけですよね。
渡辺:全部分かった上で読む醍醐味もあるかもしれないです。私、テレビゲームとかも二周するタイプなんです。本もまず何も知らない状態で楽しんで、次に知っている状態で楽しんでいます。たぶん、二周目まではそういう楽しみ方をしていますが、三周目以降になると、同じ音楽を何回も聴くのと同じ感覚な気がします。もう読んでいること自体が楽しい、みたいな感じです。
――卒業後は、どうされたのですか。
渡辺:就活の最初の、大きな会場の合同説明会的なイベントに行った時点でもう心が折れて。そもそも週五で働きたくないし、その頃はまだリモートワークという概念もなかったので、もし就活して会社に入っても自分は絶対にどこかでくじけて無理になって終わるだけだから、翻訳家を目指したほうがまだ現実的だなと思いました。
卒業した年は、たしか大学時代のアルバイトをそのまま続けたか派遣会社に登録したかで、就職はしませんでした。それで、半年後くらいに翻訳学校に入学して通い始めました。働いてはいたけれど、実家暮らしで寄生している状態の生活をしばらく続けていました。
――翻訳学校はいかがでしたか。
渡辺:わりと真面目に通っていたんですけれど、職業的なレベルまで達するのに時間がかかって、そのうち課題も真面目にやらなくなってしまって。海外のニュースを耳で聞いて訳出する授業があったんですけれど、それも聞き取れた部分をネットで検索して、ニュースの全文を入手して訳出するというズルをしたりして。自分でもこれでは通っている意味がないし、このままだと翻訳家にはなれないと思うようになりました。
ただ、日本語の訳出の文だけはめちゃめちゃ褒められていたんですね。なので、日本語の文章のほうをこれだけ褒められるなら、日本語で何か書いてみようかなと思ったのが、小説を書き始めたきっかけです。それが25歳の時でした。でも最初は、びっくりするくらいぜんぜん書けませんでした。
――どういう小説を書こうとしたのですか。
渡辺:最初に書きあげたのは、多重人格の高校生の男の子がいて、自分の周りで起こった連続殺人事件の犯人が自分ではないことを確かめるために頑張る、みたいな話でした。高校時代、学校帰りに本屋さんで読んでいた本の中にダニエル・キイスの『五番目のサリー』があって、大好きで繰り返し読んでいたんです。それが、多重人格がテーマの小説だったので。
――ミステリを書こうと思ったわけではなく、今まで読んできたものの影響を受けて書いたら多重人格ものだった、という感じですか。
渡辺:そうですね。ミステリ作家とそうでない作家がいるということもその時はあまり考えていませんでした。とにかく自分の好みの方向に全部つぎ込むという書き方でした。
――多重人格の男の子の話、面白そうです。
渡辺:面白かったと思うんです(笑)。ちゃんと最後まで書ききって、これは受賞するだろうと思ってメフィスト賞に応募したんですけれど受賞できなくて。編集者の方の座談会で面白かった応募作にはコメントがあるのに、それにも引っかからなくて、一回書いただけじゃ駄目なんだ、ちゃんと真面目に書かなきゃいけないぞと思って、気合を入れ直して二作目を書き始めました。
――二作目はどんな内容だったのですか。
渡辺:社会人の男性が主人公で、同棲している恋人を殺してしまったシーンから始まるんです。その死体を埋めるために中学高校時代を過ごした田舎町に行くんですけれど、埋めているところを中学高校時代に仲がよかった女友達に目撃され、その女友達がちょっとメンヘラをこじらせていて、脅すというか、目撃したことを匂わせてくる...みたいな話です。それもなにかの影響だったのか、人が死ぬところから始めると書きやすいという感覚があった気がします。
――それもメフィスト賞に応募したのですか。
渡辺:小説野性時代フロンティア大賞だったと思います。それは二次選考まで通りました。一次選考を通った時点でもう、ものすごく嬉しかったです。それまで自分が書いたものを誰かに見せたことがなく、小説を書いていることも誰にも話したことがなくて、自分の書いたものが果たして小説として成り立っているのかも分からなかったんです。そもそも日本語として意味の通る文章になっているのかも不安だったので、一次選考を通るということはとにかく小説を書けているんだと思えて嬉しかったんです。
その後、二次選考にも通ったので、これは小説家になれると思って。二次選考の次には進めなかったんですが、いけるという気分になって三作目を書き始めて。それが『ラメルノエリキサ』でした。
――2015年に『ラメルノエリキサ』で小説すばる新人賞を受賞し、翌年同作を刊行してデビューされましたよね。じゃあ、毎回違う新人賞に応募されていたのですね。
渡辺:そうですね。早く結果を知りたくてしょうがなかったので、書き上げたタイミングでいちばん締め切りが近くて、規定枚数の中に収まる賞に送っていました。とにかくすぐ出せるところに出すという感じでした。
――『ラメルノエリキサ』は、どんなに小さなことでも不快な思いをしたら必ず復讐する高校生の少女が、夜道で何者かにナイフで切り付けられ、復讐心を燃やして犯人捜しを始めるという青春ミステリですね。
渡辺:それまで男性主人公を書いてきたので、三作目は女の子の一人称で書きたいなと思いました。ストーリーを進めるにあたり、なぜ警察官でもない女の子が犯人を捜す必要があるのか理由をつけなきゃと思って。自分で復讐したいから、という理由にするために主人公の性格を作っていったところがあります。
――主人公と家族との関係なども描き込まれ、軽快な文章も魅力でした。受賞が決まった時はどんな気持ちでしたか。
渡辺:嬉しかったです。三作書いて力突きた感があって、これで駄目だったら諦めるかな、くらいに思っていたんです。一作目、二作目を書いている時は応募した後にすぐ次の小説を書き始めていたんですけれど、『ラメルノエリキサ』を応募した後は何も書いていなくて。ちょっと疲れたからいったん休もうくらいの気持ちでいたので、受賞はすごく嬉しかったです。
ちょうど、正社員になってもいないのに思い切ってひとり暮らしを始めてお金がないなと思っていた時期でもあったんです。住民税か何かを払うのが厳しいから副業を始めなきゃと思っていたところだったので、「払える...!」という感覚がすごくありました(笑)。
――この先、作家として作風や方向性などはどうしていくのか、なにかビジョンはありましたか。
渡辺:それがなくて。どうしようと思いました。何本かアイデアのストックを持った状態でデビューするのが理想的だというのは情報として知っていたので、自分にはストックがないなと焦りました。
――でもその後、順調にいろんな切り口の作品を発表されてきましたよね。たとえば『アイドル 地下にうごめく星』は、たしか実際に地下アイドルのライブに行かれたのがきっかけでしたよね。
渡辺:職場に地下アイドルオタクの人がいて、その人に仙台の地下アイドルのライブに連れていってもらったんです。その時に見た光景や気持ちが出発点になっている感じです。
だいたい、その時その時に触れたものや、興味を持ったものに影響されて書いている気がします。たとえば『カラスは言った』は、エドガー・アラン・ポーの「ザ・レイヴン」という詩をはじめて読んだ時、カラスが話しかけてくるシチュエーションがすごく格好いいと思っていた経験に影響されています。
――『カラスは言った』はまさに、カラスが突然話しかけてくるところから始まる物語です。他に、『クラゲ・アイランドの夜明け』は、殺人や傷害が起きない海上の楽園で自殺者がでるという。これはSFっぽい設定ですよね。SFも読まれていたのかなと思いました。
渡辺:SFも読んでいたと思いますが、本当にジャンルを気にせずに読んでいたので、後からそういえばあれはSFだったのかなという感じで...。
ただ、SFはゲームのほうからの影響が強いかもしれません。文章を読んでからどの選択肢を選ぶかでストーリーが変わっていくノベルゲームも結構好きだったんです。そのなかでSFっぽいゲームとして印象に残っているのが、「Ever17」です。女の子を攻略していく感じのゲームなんですけれど、舞台が水中水族館みたいなアミューズメントパークなんです。オープン初日に女の子と「俺」が事故でそこに閉じ込められて、どんどん酸素がなくなっていくなかでどうやって生き残るのか、みたいなストーリーです。それが結構ループものの要素があったり、若干人工知能が関わってきたりして、今思えばSFでした。すごくはまったゲームだったので、その影響はあるかもしれないです。
それと『クラゲ・アイランドの夜明け』は、たしかその頃森美術館で「未来の建築」みたいな展示をやっていて、そこで見た水中コロニーが印象に残ったんです。それがきっかけで考え始めた話でした。
――では、『私雨邸の殺人に関する各人の視点』はどういう出発点だったのでしょうか。あれは探偵不在のミステリですよね。
渡辺:館もののクローズドサークルミステリが書きたいという気持ちで、編集の方に若干無理を言って、お願いしました。
私はクローズドサークルのミステリが大好きなんですけれど、探偵という役割のキャラクターを好きになることはあまりなくて。昔、その場を仕切ってくる先生にイライラしていたので、先生的な役割の人に対する反発心が生まれるのかもしれません。なぜ警察でもないのに仕切るんだという目線に立ってしまいがちなので...。探偵がいないミステリといえばアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』などもあるし、特に斬新なことをやろうとは思ったわけではなく、自分の好きな群像劇的なところだけを書きたかったので、探偵はいなくてもいいかなという気持ちでした。
――『月蝕島の信者たち』も、孤島に新興宗教の信者たちが集まるクローズドサークルのミステリです。
渡辺:自分はクローズドサークルのどこが好きかと考えてみると、異常な状況に置かれた人間の心理とか、人間関係がこじれたりひずんだりしていく群像劇のところだなと思うんです。それをちょっと特殊なコミュニティで起きるところが見たいなと思いました。
その頃、友人にスピリチュアル系の団体にはまっている子がいまして。その子は、そのことを俯瞰で見て面白おかしく喋ってくれるんですね。どこまで本気で言っているのか分からないところがありましたが、話を聞いて、同じものを信じる集団というのもちょっと面白いなと思っていて。ちょうどオンラインサロンのコミュニティというものにも面白さを感じていたので、新興宗教というよりネットを通して集まってきた信者たちという設定にして、ある種滑稽な部分も出せたらいいなと思っていました。
――読者として好きなクローズドサークルものは、どのあたりですか。
渡辺:それこそ綾辻行人さんや有栖川有栖さんも楽しく読みました。私は本当に節操のない読書をするので、館ものがシリーズであることに気づかずに刊行順にこだわらず適当に手に取って楽しく読んでいました。島でのクローズドサークルものですごく好きだったものがあるんですけれど、本当にタイトルも作家名も思い出せなくて......。
ゲームでもやった記憶があります。最初に触れたクローズドサークルミステリって、もしかしたら「かまいたちの夜」だったかもしれないです。それと脱出ゲームも、閉鎖空間のなか数人で脱出を目指す、というところが似ていますよね。私はクローズドサークルミステリとシチュエーションスリラーを同じテンションで楽しんでいるかもしれません。
――渡辺さんの作品はミステリ要素のある作品でも、現代社会のなかでの違和感や、人間関係のなかで起きる微妙な心理を浮き上がらせていく部分が大きいと思うのですが、それは自然とそうなるのですか。
渡辺:自分が楽しいと思うところを書いて言ったら自然とそうなったという感じですね。でも、犯人当ては好きなので、そういうミステリ部分は、緻密に、大事に、ちゃんと読む人が考えたら当てられるように書いています。
――デビューしてからの読書生活は、何か変化がありましたか?
渡辺:国内のものより海外の本を多く読むようになったかもしれないです。自分がものすごく集中して書いている時に日本語で書かれた小説を読むと、その本の作者との距離の近さが気になってしまうというか。書いている作家さんを意識してしまうんです。海外小説だと翻訳者さんが挟まるおかげで、ちょっと距離を感じながら読めるのでいいんです。
やはり、読書の原体験が自然発生的にそこにある本を読むという感覚だったので、作者の存在を意識せずに読みたいんですね。だから自分がデビューする時も、あまり個性が出ない作家名にしようとは最初から思っていました。
――ああ、そうだったんですね。
渡辺:本当は性別も分からないほうがいい、くらいに思っていました。なんなら覆面作家でいきたかったんですけれど、そんなことを言っている場合じゃないというか...。
でも、自分の本が読まれる時も、自然発生した本を読んでいるような気分でいてほしいなという気持ちは、いまだにちょっとあります。
――海外小説を選ぶ時は、どのように選んでいますか。面白かった本を教えてください。
渡辺:もう本当にジャケ買いです。書店さんでタイトルや表紙を見て内容を勝手に想像して、最初の部分をちょっと読んでから買います。
海外小説って面白いなって最初に思ったのが、アダム・ファウアーさんの『数学的にありえない』です。数学の天才が陰謀に巻き込まれるミステリで、若干SFっぽさもあります。同じ作者の『心理学的にありえない』もものすごく面白くて。
『火星の人』や『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のアンディ・ウィアーさんは全作品読んでいます。それと、ジェフリー・ディーヴァーさんも好きで。『追撃の森』とかがスリラー系で、すごく面白かったです。
海外のものは犯罪小説とか、元CIAが...といったものばかり読んでいます。
――その場を仕切る探偵が出てくるものはあまり読まないわけですか。
渡辺:探偵が出てくるものも好きです(笑)。ただ、探偵のキャラクターは好きにならないというか。アンソニー・ホロヴィッツも大好きで、『メインテーマは殺人』とかのホーソーン&ホロヴィッツのバディものシリーズも読んでいるけれど、その二人が好きなわけではないという感じです。
――一日のルーティンはどんな感じでしょうか。
渡辺:この一年半くらい、眼精疲労がひどくなってルーティンが崩れてしまっているんです。もともとルーティンはあまりない人間ですが、一応朝起きた時は朝から仕事をすることにしていて、紅茶を淹れて、それを飲みながら午前中はできる限り仕事をします。以前は午後も頑張って仕事をするかゲームをするかだったんですけれど、今は画面が長く見られないので、YouTubeのゲーム実況を耳だけで聞いたり、芸人さんのラジオを聞いたり。
眼精疲労になってからAudibleを聞くようになりました。もともとは自分と本の間に読む人が入ってくることに抵抗を感じてAudibleは利用していなかったのですが、聞き始めてみたらとても面白い体験でした。文字で本を読む体験とはまた違っているとは思うんですけれど、目を使わなくてすむ趣味としてAudibleを聞くことにはまり始めています。
――Audibleで聞くのに向いている小説と向いていない作品ってあると思いますか?
渡辺:あると思います。難しい専門用語がたくさん出てきたり、人がいっぱい出てきたりする話は、すぐにページを戻して確認するということができないので...。それと、朗読の感じも合う合わないがあるなと思います。作品によって淡々と読んでくれるものと、ラジオドラマのように感情をこめて読んでくれるものがあったりするんです。それは好みによると思います。
――これはAudibleで聞いてよかった、という作品はありますか。
渡辺:Audibleではまって一気に読んだのが、マーク・グリーニーの『暗殺者グレイマン』のシリーズです。冒険小説になるのかな。元CIAの人間が組織に追われて、どんどん刺客が襲いくるなか頑張って人質を救助に向かう、みたいな話です。結構淡々と読んでくれて、どんどん殺人者が襲い掛かってくる展開が分かりやすいんです。これはずっと聞いていられるなと思いました。
――専門用語や登場人物が少ないのですか。
渡辺:わりと重火器の名前とか旅客機の名称も出てくるんですけれどすっと聞き流せるし、人が次々死んでいくので、名前を憶えなくていいというか(笑)。重要な何人かの名前を憶えておけば混乱することもなく、お皿洗いをしながらでも、「いいぞいいぞ」「頑張れやっつけろ」みたいなテンションで楽しく聞いていられます。
それとはまったく違うんですけれど、ずっと読んでみたかったけれど手を出す機会がなかった古めの本もわりとたくさん聞けるんです。アゴタ・クリストフの『悪童日記』の三部作がAudible入っていたのではじめて聞いたんですけれど、淡々とした読み方をしてくれていて、すごく楽しく聞けました。『ベロニカは死ぬことにした』もAudibleで聞きました。それはお皿洗いをしながらではなく、じっくり聞くという形でしたが楽しい体験でした。
――最新作の『女王様の電話番』は、恋愛至上主義のような社会に馴染めない二十代の志川が主人公です。〈この世界はスーパーセックスワールドだ〉〈私はそのことに気づくのがひとよりたぶん遅かった。だから仕事を失った〉という彼女が見つけたアルバイトは、メンズエステの電話番。執筆のきっかけはどこにあったのですか。
渡辺:作家になる前から、誰もがヘテロセクシャルでセックスする人間だということが前提になっている世界に違和感があったんです。編集者と打ち合わせしていた時に、その愚痴みたいなことを話したら、「そういう小説が書けるのではないか」とご提案をいただきました。それで、自分の価値観は社会のメインの価値観とは違うなと感じる部分を小説に書けたらなと思って。自分が違和感を持っている世界を短い言葉で表そうとした時に、「スーパーセックスワールド」という言葉がすっと出てきました。
――志川自身は、異性を好きになることはあっても、セックスが無理。アセクシャルという言葉は知っているけれど、自分がそれに当てはまるか分からずにいます。そんな彼女が偶然見つけたアルバイトは、性風俗店の電話番だという。この人物やシチュエーションの設定はどのように考えたのですか。
渡辺:自分の中に蓄積されてきた違和感を小説に落とし込むのが難しくて、どうしたらいいか考えている時に、スーパーセックスワールドのことがよく分からない主人公にすれば書けるかなと思いました。アルバイト先については、以前私自身がバイトを探していた時に、コールセンターの求人だと思って行ってみたらデリバリー風俗のお店だったことがありました。そこで一日だけアルバイトしてみたら、本の中に書いたような驚きや戸惑いがいっぱいあって。私には無理だと思って一日でやめたのですが、スーパーセックスワールドについて書こうと思った時、すぐにその時の体験を思い出しました。
主人公の前職は不動産業ですが、じつは私は不動産業でも働いたことがあるんです。短いスパンでいろんなアルバイトをしてきた体験が今活きているのは、本当にありがたいなと思っています(笑)。
――志川はバイト先で美織さんという優しい女王様に好感を持ちますが、彼女が突然音信不通になる。店の人たちは「よくあること」として放ったままですが、心配になった志川は彼女を捜し始め、常連客たちにコンタクトをとる。すると、人によって美織さんの印象が少しずつ違っていて...という。ここからちょっと探偵小説っぽくなりますね。
渡辺:美織さんの失踪は最初のプロットから決めていました。ミステリ要素やサスペンス要素のある話を読むのが好きなので、書く時もそういう要素が入ったほうが楽しいんです。それに、主人公が世界に対して文句を言うだけで終わるのでなく、何かしら動いて成長していく話にしたかったんです。
――美織さん捜しの過程で出会う人たちや、友人や昔の同僚らとの関わりあい、そして美織さんの真実を知ることで、志川は自分自身に向き合っていきます。
渡辺:最初は、主人公がスーパーセックスワールドの世界で自分なりの居場所を見つける話にしようと考えていたんです。でも、どう落としどころをつけたらいいのか、ぜんぜん分からなくて。だったらその"分からなさ"をきちんと書こうと思いました。
――読者の方々の反応はいかがでしたか。
渡辺:分かると思ってくれる人と全然分からないという人と両極端に分かれるとは思っていたんですけれど、思った以上に分かれたな、と。「自分のことのようだ」といってとても心のこもったお手紙をくださる方、「自分は主人公とは違うけれど、こういう気持ちは分かる」みたいに言ってくださる方もいて。すごく嬉しいです。でももちろん、「主人公がなんでこんなことをするのか分からない」という感想もあって、自分でも「そうだよな」と思ったりします。
その視点はなかった、という感想もありました。「風俗店を利用するのはものすごくプライバシーにかかわることなので、店のアルバイトの女性から私的な理由で連絡があったら恐怖だ」と言ってくれた男性の友人がいたんです。お客さんサイドの個人情報の扱いに対する気遣いを考えていなかったと気づきました。それもまたスーパーセックスワールドのルールをひとつ破っていることだろうなと思うので、もし書いている途中に気づけていたら、そのことにも作中に触れられたんですけれど。
――今作は直木賞の候補にもなりましたね。
渡辺:嬉しかったです。最初はなかなか信じられなくて、編集者さんたちに連絡するのもちょっと遅れました(笑)。
今回は残念ながら受賞とはならなかったんですが、選考会の日に「受賞しませんでした」という電話連絡をいただいた瞬間から、ものすごくやる気が湧き出てきました。
それまでは正直、候補になってもまだ「直木賞」というものに現実味を感じられていなかったんですけど、「候補になったけれど獲れなかった」となった瞬間に、賞をいただけるようないい小説が書きたいという気持ちがすごく強くなりました。
――最後に、今後の刊行予定を教えてください。
渡辺:いちばん近い予定は、中央公論新社さんで今年刊行を目標にして書いているもので、内容を一言で説明するのが難しいんです。過疎化が進んだ田舎の図書館が閉館することになって、図書館に勤務する男性が資料整理をしていたら町で過去に起きた事件の記事が出てきて...。ミステリではないんですけれど、ちょっとその要素も入った話にできればと思っています。他にもいろいろ予定は入っているので、順々に書いていくつもりです。