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鴻巣友季子の文学潮流(第36回) 未来を映すディストピア小説の収穫「吸血鬼」と「タイム・シェルター」

©GettyImages

アトウッドの「侍女の物語」を彷彿

 今月は、ディストピア文学の最前線から趣の違う2作を紹介したい。遠野遥の3年ぶりの長編『吸血鬼』(集英社)と、ブルガリアのゲオルギ・ゴスポディノフの国際ブッカー賞受賞作『タイム・シェルター』(寺島憲治訳、早川書房)である。

『吸血鬼』に関して先に結論を言うと、現代日本版『侍女の物語』として読むことも可能だろう。これは偶然の合致かもしれないし、究極の男女格差ディストピア文学の代表作であるアトウッドの同作を、遠野が意識しそれに応答していたとしても不思議はない。

 『侍女の物語』(斎藤英治訳、ハヤカワepi文庫)は、底辺階級の「侍女」に属する女性のモノローグで書かれていたが、『吸血鬼』は『侍女の物語』の階級で言えば、「司令官」と「妻および妻候補」の語り手によって綴られている。

 語り手は、名門女子学院の中学3年生藤井有紗と、政治家の父を持つ裕福な美容整形科医でありクリニック経営者の白井理。対照的な2人が章ごとに交替するのに、どちらの文体も丁寧で礼儀正しい「ですます」調で、トーンにほとんど差異がない。章の出だしだけでは、一瞬どちらの語りかわからないほどだ。この無個性な文体はもちろん戦略的に選ばれたものだろう。

 舞台となるのは、男性のみが支配層となり女性の人生を決定する未来の管理社会である。女性は「おひつじ」「おうし」「ふたご」から「みずがめ」「うお」まで12等級にランク付けされ、中学教育を終えたら、多くは政府の公式「目録」から男性に選ばれて結婚していく。遠野の先行作のようなセックスとスポーツ(身体鍛錬)の要素は薄いが、本作の核心には若さ美しさへの執着および至上主義がある。そして美の基準は男性たちの好みで移り変わるのだ。

 男性には妻が2人まで認められており、6か月ごとの更新時期で交換が可能。しかし、男性もうかうかしてはいられない。社会的地位や財産によって順位付けされており、ステイタスが低ければ結婚は難しく、前期より状況が下がれば妻に去られることもある。

 語り手の有紗は政財界などの大物の結婚相手となる「おひつじ」と「おうし」等級の女子だけを入学させたエリート学院に通っているが、父親が作家からフード宅配員に格下げになっており、生活は楽ではない。父は有沙のためになんとか学費を捻出している模様だ。

 学院の女子は白い肌を守るために極力陽光を避けて暮らし(そのため「吸血鬼学院」とあだ名される)、規律に反する生徒を排除すべく相互監視と通報が奨励されている。男性からの結婚申込みに対して拒否権はないが、稀に拒否した女性は政府の目録から存在を削除され、「へびつかい」と呼ばれて社会の外へ追放される。

 こうした若年婚と排除の制度も『侍女の物語』を髣髴させる。同作では、初等教育を終えた13歳頃から女性が見合いをさせられ、「アンウーマン(不完全女性)」の烙印を押された女性は、「へびつかい」のように社会から追放されるのだ。

特権階級のアパシーも明るみに

 しかし『吸血鬼』の男性主人公は優しい。アナウンサーの妻をつねに「美優さん」と「さん」付けで呼び、クリニックから帰れば、妻の帰宅前に必要な家事はすべて自分が済ませてしまう。妻は1人と決め、彼女が年齢を重ねても交換せず、「おうし」から「ふたご」に格落ちしてもまるで気にしないと言う。しかし何気ないひと言に、白井が自分の特権にまるで無自覚なことや、ランク付けに対する本音がのぞくから怖い。

 例えば、国会議員である父の秘書からのし上がった景虎という旧友に、世間知らずぶりを辛辣に指摘されても、彼はまるで動じないし苛立つこともない。ただ、「私は景虎の友達だから、ストレス発散ぐらいには付き合ってあげなくてはいけない」と、鷹揚に考えるだけだ。美優が「ふたご」に格落ちしたときにも、そんなことはまるで重要ではないと言ってから、「もちろん、『みずがめ』や『うお』*(最底ランク)だったら、そのときにはまた考えさせてほしいが」と付記するのを忘れない。彼が差別や偏見から自由な振りをできるのは、あくまで上層部の序列と生活においてのみなのだ。

 これは特権階級のアパシー*(apathy=無感覚)と言えるだろう。学院で定年間近の五十嵐先生は恵まれた環境に慣れ切ったあまり、新型感染症だろうが食糧難だろうがホームレス問題だろうが、すべてを「他人事」のように穏やかに受け止めることができる。

 遠野遥は「真っ当」とは何かを逆説的に問うてきた書き手であり、『吸血鬼』もその系譜を継いでいるだろう。遠野の書く男性主人公たちは基本的に律儀で理性的で優しい。私はこれらの作品を「血の通わない真心まごころ小説」と呼んできた。『吸血鬼』では心に棲みつく鬼畜はより深くに埋められ、血の通わない真心ぶりはいっそう洗練されて、思いやりの人と見紛うばかり。本作を、誠実な夫を描いた愛情物語だと捉える読者すらいるかもしれない。しかし抜きがたい差別意識と格差社会への痛烈な風刺と批評を見逃してはいけない。

「郷愁」が持つ危うさ

 ゴスポディノフの『タイム・シェルター』は、さまざまな悪夢と痛みを抱えつつ多文化・多言語が共生するヨーロッパのノスタルジアとナショナリズムを掘り下げた傑作である。

 郷愁というものにはなにか危険な香りがある。ここでちょっと引き合いに出したいのが、柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)収録の「めんや 評論家おことわり」という一編。女性店主の店を出禁になった無頼派の男性ラーメン評論家が出てくる。この店への自称絶賛評というのがこれだ。

「部活帰りに友達の家で、お母さんがチャチャッと作ってくれた醤油ラーメンを思わせる〈中略〉郷愁の味わい」

 プロが丹精した料理に対するこの舐めたコメントからは、ラーメン職人も評論家も圧倒的に男性が多いというラーメン業界の構造が窺えるかもしれない。そして「郷愁」というワード。「昔はよかった」という言説にはしばしばマッチョな強さへのあこがれ(米国のMAGAしかり、南部回帰しかり)や、全体主義やマイノリティ蔑視の気配がときに潜んでいる。

ポピュリズムと「輝かしい過去」へのノスタルジアは

『タイム・シェルター』では、名前のない語り手とガウスティンというカリスマ精神科医によって「過去のためのクリニック」という特異な記憶治療を行う診療所が設立される。ここの各フロアにはそれぞれ過去の年代が精緻に再現されており、認知症などの記憶障害を抱えた人びとがやってきて、最も幸せだった時代の記憶に包まれて安らぎを得る。

 ガウスティンは鋭くもこう予言する。
「ねえ、分かるかい、いつの日か、それもすぐ近いうちに、多くの人びとが、自分の意志で記憶を『失くす』ために、すすんで過去に戻ってくるようになるから。ますます多くの人びとが、元に戻って洞穴に隠れたいと思うようになるぞ」

 この予言は的中し、若めの健康な人びとまでがこのクリニックに依存するようになる。人びとは現在と未来を恐れ、伝統的な生活や服装を支持するようになり、こうしたノスタルジアの潮流はいつのまにかポピュリズムと「柔らかな圧政」を呼びこむことになる。こうした危うさはヨーロッパに限らず、いまのアメリカ合衆国にも、さらには日本にも当てはまるだろう。

「過去は感染する」。人びとは心地よい「選択された過去」「守られた時間」(これが「タイム・シェルター」の由来)に回帰することを切望する。危機を感じたEUの「三首脳」がガウスティンのもとを訪れ、国民投票が検討される。

 最初の国民投票の際の「回帰への呼びかけ――ヨーロッパは自らの過去を選ぶ」「共通の過去のヨーロッパ連合」という新聞見出しは、甘美な誘いでもあっただろう。ポピュリズムと「輝かしい過去」へのノスタルジアはどちらも中毒性が強い。作者は言う。「アメリカとヨーロッパで『偉大な過去』というカードが使われることで世界が崩壊していくありさまに、私は強い刺激を受け」たのだと。

 しかしヨーロッパの抱える歴史的な痛みと悪夢は多様だ。革命の反動からか安定した年代を選ぶ国もあれば、内戦を経た国は終結の時代を選び、旧社会主義国は「輝かしい未来」への希望と喪失から別の時代を選び、中立を選ぶ国もある。国家間に緊張が高まり、単一の歴史像はますます揺らいでいく。

 そして、最終章では、最も再来してはいけない大戦勃発の時代への回帰が――。

 本作には、文学作品や作家への言及、引用が鏤められている。ヴァージニア・ウルフ、ガルシア=マルケス、T・S・エリオット、ゴーゴリ、『白鯨』、『老人と海』……。名前のない語り手は言う。「幸福な国家はどれもみな似通っているけど、不幸な国家はその不幸のあり方がそれぞれに異なっているものだ」と。トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭のパロディだ。

 分断と統合を繰り返してきたヨーロッパの平和と幸福とはどこにあるのか。日本に暮らす私たちから遠い話ではまったくない。本書をブルガリア語からの直接翻訳で読めることは幸運である。