我が家の隣の更地で、工事が始まった。古くは小学校の同級生一家が暮らしていた場所で、彼らが引っ越した後、長らく無人が続いた家が取り壊されたのがかれこれ十年前。それからずっと更地だったところに、高さ制限ほぼぴったりの家が建つらしい。わたしの仕事場からの光景も、ずいぶん変わることになりそうだ。
スクラップ・アンド・ビルドは世の習い。古いものが消え、新しいものが作られるのはしかたがない。ただ同級生がそこに暮らしていたという証しが消え、新しいもので上書きが行われる。それが完全に済んだならば、「かつて」の痕跡は完全に消える。そしてその事実にぽっかりとした寂しさを抱いていた人間がいた事実もまた、わたしがいなくなれば綺麗(きれい)さっぱりなくなるわけだ。
そんなことを考えていると、引っ越しや新居というものが、強靱(きょうじん)ともまた凶暴とも感じるようになった。それまでにも長く誰かと縁を結んでいた場所に、次の人が新たに根を下ろす。五年、十年、場合によっては終生ずっと。そこに確かに存在した思い出が、新しい生活で塗りつぶされていく。
とはいえ、それは決して悪いことではない。我々の遠いご先祖さまは、まだ日本列島が大陸と陸続きだった遠い昔に、いまのアフリカからユーラシア、そして各地を経由してこの地にきた。生活することが現代とは比べ物にならぬほど困難だった時代において、より住みよいところに居を移すとは、命を守ることとほぼ等しかったはずだ。となれば転居が放つエネルギーは、人類に宿命づけられたものと言えなくもない。
春は転居のシーズンだ。引っ越しのトラックを目にする機会も、このところ急に増えた。行き交う人々は誰かの記憶の上に居を営み、いずれはその彼らの記憶の上にもまた次の生活が降り積もる。その堆積(たいせき)が歴史を作り、町を作る。だとすれば今のわたしのこの小文は、そんな地層のただなかに差し込まれた小さな小さな栞(しおり)なのかもしれない。=朝日新聞2026年4月1日掲載