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「あの重い足音のにおい」書評 不条理や哀感にじむ鋭敏な語り

評者: 藤井光 / 朝⽇新聞掲載:2026年05月09日
あの重い足音のにおい 著者:イブラヒーム・サミュエル 出版社:水声社 ジャンル:

ISBN: 480100959X
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「あの重い足音のにおい」 [著]イブラヒーム・サミュエル

 2024年の暮れに、約半世紀にわたるシリアのアサド体制が崩壊した。独裁体制下での監視と虐殺と抑圧、さらには10年以上続いた内戦がもたらした深い傷から、シリアの人々は長い回復の道をようやく歩み始めたところだ。
 作者イブラヒーム・サミュエルは、ダマスカスに生まれ、体制に批判的な組織に加わり、1970年代後半から3年間にわたって収監された経験を持つ。1980年代後半に書かれて本書に収められた九つの短編は、窒息寸前のシリア社会を背景にした出来事を、研ぎ澄ました言葉で語っている。
 最初の三つの短編は、いずれも監獄を舞台とし、著者自身の投獄体験を色濃く反映している。妻が初めて息子を連れてきた面会、投獄前の恋人との逢瀬(おうせ)の記憶、妻から地下牢に差し入れられたお金。そうした場面からは、抑圧体制が親密な人間関係にまで浸透し、暴力的に歪(ゆが)ませていることが如実に示される。
 一方で、投獄された男性を繰り返し主人公としていても、各短編の語り口からは、不条理や哀感など、異なる情感がにじみ出す。その筆致の巧みさは、変装した写真こそが本物の父親であると信じる息子を前に途方に暮れる男性の姿をコミカルに語る「もはや父親ではなくなった男」と、当局に睨(にら)まれている夫と久しぶりに再会すべく待ち合わせ場所に向かう女性の、緊張感と虚無感に満ちた一瞬を切り取る表題作に、異なる形で凝縮されている。
 どの物語でも、登場人物たちは、伝えたい言葉があってもそれを相手に伝えられず、みずからの居場所を見失ってしまう。権力によって、親しい人から、そして自分自身からも遠ざけられ、生きながら亡霊のようになった状態から回復することは、どうすれば可能なのか。40年近く前の物語が発する、その問いを生きねばならないのは、シリアの人々だけではないのだ。
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Ibrahim Samuel 1951年、シリア・ダマスカス生まれ。作家、アラビア語教員。原書は88年刊のデビュー作。在ヨルダン。
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石垣聡子・岡崎弘樹訳