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蝉谷めぐ実「見えるか保己一」 知の巨人・塙保己一を美化せず、等身大の人物として描いた傑作評伝(第37回)

©GettyImages

主人公に見えないもの、主人公にしか見えないことの存在を指摘

 他の誰にもない語りの声を、蝉谷めぐ実は持っている。
 持っているのは当然で、出処が異なる。
 近世の芝居文化に強い関心を持ち、大学では化政期の歌舞伎をテーマとして卒論を書いた。おそらくはその延長で実作を志したのであり、戯作文学の文体が身体に入ってくるのは当然の理であった。第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞、第27回中山義秀文学賞を受賞したデビュー作『化け者心中』(角川文庫)は、ファンタジーとミステリーというジャンルの要素を取り込んだ点も成功していたが、何より江戸に生きる人の言葉を忠実に再現した点が見事だった。
 最新長篇『見えるか保己一(ほきいち)』(KADOKAWA)は、日本書誌学史上の最重要書である『群書類従』を編纂し、国学・国史の研究機関である和学講談所を創立した知の巨人・塙保己一を主人公とする物語である。
 武蔵国保木野村(現・埼玉県本庄市)で農家の長男として生まれた保己一は生まれつき体が弱く、7歳のときに失明する。その幼名・辰之助が学問の道を志し、旅の絹商人・九郎左衛門に連れられて江戸に向かうまでが第1章「むしの子」である。第2章「えんていの水」では、視覚障害者の職業団体・当道座に入り、名を千弥と改めて師匠・雨富検校の下で修業に勤しむ姿が描かれる。按摩や針などの才能には恵まれず、絶望しかけるが雨富検校の温情によって救われ、ようやく学問への道が開く。

 物語が動き出すのは第3章「すでに触れて」からである。幸いにして当道座の中でも出世が出来るようになり、師匠の本姓を貰って名を塙保己一とした。「部屋の中を、音の高さも口振りも速さも臭いも何もかもが違うお声が絡んで離れて、響き合っているのは聞いていて心地がいい、そして、これが一冊の本の中でできれば」と思う保己一は、巨大な叢書を作り上げることで書物の体系を作り上げ、学徒の用に供しようと決意する。これが後に666冊をもって完結する『群書類従』である。
 保己一の妻・お丁が突然姿をくらます挿話がこの章に入る。ようやく見つけたお丁の手に保己一が触れると、それは無惨に荒れていた。お丁は保己一に、あなたのそばにいるために学のある人間になりたかった、と話す。普段紙に慣れないものが本に触れたために、手の水分を持っていかれて荒れたのだと。それに対して保己一は、お丁が手を荒らさなくても済むよう、自分が読むべき本を作り、それを読み聞かせてやる、と約束する。このくだりが、『群書類従』編纂に保己一が熱意を燃やすという本筋の展開を側面から補強することになるのだ。

『見えるか保己一』は現実に虚構を混ぜ合わせることが巧みな小説である。別の姿形で登場した者が後で実在の有名人であったことが明かされたときには、あっと驚かされた。伝奇小説ではおなじみのやり方である。実はこうだったのだ、という種明かしが効果的に用いられており、上に紹介したお丁とのやりとりにも、実はもう一段階の裏がある。保己一は視覚障害者であるために見えないことがある。作者は常にその点を意識しており、主人公に見えないもの、主人公にしか見えないことの存在を指摘して読者に気づかせるのである。これによって物語は驚きに満ち、起伏に富んだものとなる。
 帯にある町田康の推薦文「見たいものの向こう側にある絶対に見たくないもの、見たくないものの奥底にあるどうしても見たいもの、どちらを書くのも難しいのに、その両方が書かれてありました。稀有なことです」という指摘はもっともで、本作の特徴を見事に捉えている。『見えるか保己一』という題名は視覚障害者に対して残酷なようにも感じられるが、見えないということに対する晴眼者の無理解、見えない者が心に抱えている不安の存在を直視したものと考えれば、そのふさわしさも理解できるのである。

章題に込められたふたつの意味

 塙保己一に関する逸話として最も有名なのは以下のものだろう。蝋燭の灯りを頼りに『源氏物語』の講釈をしていると、吹き込んできた風によって火が消えてしまった。見えない保己一は気づかずに講釈を続けようとしたが、門人に少し待つように頼まれて思わず「さてさて、目のある人は不便なものよ」と言ったというものである。
 保己一の天才的な記憶力を示す逸話ではあるのだが、本作ではそう発言した当人の動揺がこのように綴られる。
――保己一は小さく笑って、それから己の言葉にはっとする。今のはなんだ。嫌みか。己は嫌みを口にしたのか。唇に手をやって、聞かれたか、と体を震わせる。今のを門弟に聞かれたのではあるまいか。学問を続けてゆくには、門弟らの口をつかうしかないのに、門弟らに嫌われるわけにはいかぬのに!
 門弟らが読んでくれる言葉でしか、保己一は書物に接することができないのである。それゆえの不安、誰のことも心からは信頼できない孤独が第4章「はんぎ、蔵にて」では描かれる。本作の章題は、ひらがなの部分に二通りの漢字が当てられるようになっている。第1章は「虫/霧視の子」、第2章は「淵底/園庭の水」、第3章は「素手/既に触れて」というように。この『源氏物語』講釈の逸話が書かれる第4章「はんぎ、蔵にて」の「はんぎ」には『群書類従』開板に必要な版木と、常に不安な心を抱えている保己一の半疑が掛けられている。耳ですべてを理解するしかない者ゆえの心境がこういうところでも表現されている。
 叙述視点の半分は主人公である保己一、もう半分は彼を囲むさまざまな人々が交替で勤めている。第4章で視点人物となるのは、保己一の娘であるとせ子だ。父が抱える本質的な不安と恐怖を理解する彼女は、自分が支える役になりたいと考える。第5章「どうしゅう(導衆/銅臭)の人」での塙保己一は、功成り遂げて、将軍に拝謁が叶うようになった身の上である。ここで視点人物となるのは宗助という同心で、彼が見た塙保己一が外側から描かれる。それまでの物語の裏側を描くことを目的とした章で、『見えるか保己一』という物語を立体的なものにすることに貢献している。

ミステリーの技法が効果的に用いられる終章

 視覚障害者であり、歴史上の偉人でもある保己一を美化せず、弱い部分のある等身大の人物として描こうと作者は腐心しており、たとえば物事の裏表両面を描くことで、美談として語られることにも違った解釈ができるようにしている。また、主人公の内面に去来する言葉が、武州農民の息子である辰之助、仕事のできない盲人であった千弥の頃のものであることも、保己一を等身大に見えるための工夫だろう。その生々しい語りが保己一の赤裸々な私を浮かび上がらせるのである。
 大団円となる第6章「眩くて眩む」は、「まばゆくてくらむ」と読む。それまでの章題とは逆の文字用法である。第5章の展開を継承して、さらに奥行きを与えるために置かれた章で、冒頭からの物語が綺麗に引っくり返される。ミステリーの技法が効果的に用いられているのだ。特筆すべきは保己一が誰にも見せないように隠していた小心さと自我のわがまままでが引っくり返して見せられることで、卑小さの対極となる人物の偉大さが光輝を放ち始める。転覆は保己一ではない人物の視点で行われるため、彼自身はまったくそれに気づかない、という点も程が良い。
 読み終えて、塙保己一に対する尊崇の念はいささかも揺らぐことがなく、人物への好感はさらに増すことになった。評伝小説の理想形というべきだ。物語の美点は、やはり声であろう。見えないから聞くしかない主人公であるから、声に対する興味が高まるのだ。蝉谷の見事な語りの技術なくして、本作の成功はありえなかった。
 この原稿を書いている間に、本作の山本周五郎賞ノミネートが発表された。当然であろうと思う。では直木賞はどうか。期待して待ちたい。