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「キャッシュとディッシュ」書評 「非正規」の先に待ち受けるもの

評者: 吉川トリコ / 朝⽇新聞掲載:2026年08月08日
キャッシュとディッシュ (First Archives) 著者:岡崎祥久 出版社:フィルムアート社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784845926077
発売⽇: 2026/06/26
サイズ: 18.8×3cm/208p

「キャッシュとディッシュ」 [著]岡崎祥久

 文芸誌に発表された後、単行本化されなかった小説や入手困難な書籍に光をあてる試み《First Archives》シリーズの第二弾にあたる本書は、二〇二〇年発表の短編と一九九七年発表の中編、二編からなる。
 短編「キャッシュとディッシュ」は五十歳を目前に控えた「俺」が、叔父の遺品の白い皿を手に入れるところからはじまる。最低賃金すれすれ、非正規雇用で働く「俺」は「貯金はまだなくて」、生活に困窮しているわけではないが、割引シールの貼られていない総菜や弁当を気安く買えるほどの余裕はない。唯一の肉親である弟とは疎遠で、頼れる友人もなく、病気や怪我(けが)や失業、ひとつでも躓(つまず)いたら転がり落ちる手前のところにいる。
 皿の不思議な力に気づいたことから、そんな「俺」の生活が一変する。購入したものに皿の水をかけると、代金が戻ってくるのである。「ああ! これでもう、だいじょうぶだ!」と「俺」は心から安堵(あんど)する。
 なんと侘(わび)しくものがなしい独白だろう。同時に、一瞬でもこの境地に立てた「俺」が羨(うらや)ましくてたまらない。不安に埋めつくされた現代において、「安心」はなにより得がたいものだから。
 中編「秒速10センチの越冬」の「おれ」もまた非正規だが、まだいくらか若く、家族との繫(つな)がりも絶たれていない。春には仕事をやめ、絵の学校に通うつもりでいる。なにより大きく異なるのは、「おれ」から「俺」にいたるまでの二十年余りの時代を、読者がすでに見ていることだ。「おれ」が迎えた結末はほんとうに「解放」だったのか。あの先になにが待ち受けているのか。しんと腹の底が冷えるような読後感が横たわる。
 余分なもののない清潔な文章は、随所にユーモアがちりばめられ、たまらなく魅力的だ。ぞっとするほどシビアなことが書かれているのに気持ちがよくて、いつまでも読んでいたくなる。 
    ◇
おかざき・よしひさ 1968年生まれ。小説家。97年、群像新人文学賞を受賞しデビュー。2000年、『楽天屋』で野間文芸新人賞。