鴻巣友季子の文学潮流(第41回) 「信号旗K」「閉じた目」……朝吹真理子の一貫した問いかけは
怒涛の朝吹真理子である。
『きことわ』で芥川賞を受賞した後の長編第一作が、7年後の『TIMELESS』だったという寡作の書き手なのだが、今年下半期に入ってから、7月にインタビュー・エッセイ集『信号旗K』(マガジンハウス)が刊行され、8月末には小説『閉じた目』(新潮社)が発売され(紙版は7月の予約開始後即完売)、これだけでも瞠目するのだけれど、さらに8年ぶりの長編『ゆめ』(河出書房新社)が出る(10月末刊)というのだから、ファンとしては欣喜雀躍である。
言うなれば、朝吹真理子のアナス・ミラビリスだろう。annus mirabilisとは「驚異の年」を意味し、シェイクスピアで言えば、『ヘンリー五世』、『ジュリアス・シーザー』、『お気に召すまま』を書き、『ハムレット』を起稿したとされる1599年などを指す。
さて、この3冊は朝吹真理子という作家の真髄を余すところなく伝えるものになりそうだ。これを機に先行作も振り返りつつ、朝吹真理子小論をまとめてみよう。長編『ゆめ』は発売前の校正刷りを読んでいる状態なので、完本で変更点が生じる可能性がある。その点はご了承いただきたい。
私は朝吹の作品の指向性について、「アテンポラルな夢の世界」という表現を使ったことがある。atemporalとはテンポ(時間)に「ア」という否定の接頭語がついたものだ。
日本語にするなら、無時間的、非時間的、反時間的、逆時間的などと訳せばいいだろうか。temporal(時間制限のある、一時的な、はかない)であることを否定している。つまり、「時間に左右されない」、「時間の枠に縛られない」、「時間を反故にする」、「時間に逆らう」といった状態。「無窮」、「永遠」、「不変」あるいは逆に「不断の変化」、「無際限の反復」、「果てしない流転」などにも繋がりうるだろう。始めも終わりもなく、境目もなく、自在に伸縮する時間。芥川賞受賞作の『きことわ』から引いてみよう。
二十五年以上むかしの、夏休みの記憶を夢としてみている。つくられたものなのか、ほんとうに経験したことなのか、根拠などなにひとつ持ちあわせないのが夢だというのに、たしかにこれはあの夏の一日のことだという気がしていた。……自分の人生が流れてゆくのをその目でみる。ほとんどそのときそのものであるように、幼年時代の過去がいまとなって流れている。とりたてて記憶されるべきことはひとつとして起こらなかったはずの、とりとめのない一日の記憶がゆすりうごかされていた。夢に足が引き留められている。
朝吹の作品中では、空間もしばしばこれと類似の性質をおびる。以下は『TIMELESS』からの引用だ。うみという語り手がかつての我善坊谷を目指して、六本木に近い西久保八幡宮の近くでタクシーを降りる場面。
谷底に向かって落ちこんでゆく傾斜地にいる。さっきからまっすぐ進んでいるはずなのに、いまどこを歩いているか確信がもてなくなる。<中略>崖を削ったような急な坂をゆく。道をめくれば、その下からまたべつの道があらわれることを体が知っている。鱗のように一枚ずつ剥がせそうだと思う。
朝吹真理子の作品には、小説であれエッセイであれ、時空を超えた永遠と一瞬が、円環と果てしない流転が、封じ込められている。
『閉じた目』をざっと紹介しよう。作者の希望による謡曲本を模した和綴本の造本で、限定わずか300部、増刷なしという特別な本だ。紙版は「岡山芸術交流2025青豆の公園」というイベントの公式カタログとして販売され、竹森ジニー(村田沙耶香らを手がける名訳家である)による英訳版が併録されている。電子書籍版は現在も購入できるが、竹森の翻訳版は収録されていないのが残念だ。
物語は、榊田可子という37歳の古物商が仕事で岡山を訪れた夜に始まる。街で見かける醜い人間たちの所業に殺意すら覚える彼女は、ホテルでハイボールのロング缶を飲んで酩酊し、納戸にあった長持を開けてみる。中には目を閉じて眠っている男の子が横たわっていた……。
現実と夢想と記憶は渾然となり、無差別爆撃となった岡山大空襲、江戸時代に起きた部落差別にまつわる農民一揆が、さまざまな声を介して甦ってくる。時間も空間も融解する。朝吹真理子の真骨頂と言えるだろう。
主題の一つとして「人間の格付け」ということがある。ひとは自分が他者より格上であることを示そうと、序列をつくり、他者を貶め、傷つけ、支配する。読んでいくと、長持の中の男の子は太郎といい、かつての被差別部落の子であるとわかる。1873年という年号からするに、美作(みまさか)で起きた新政反対・解放令反対一揆に材をとった挿話だろうか。
明治政府の発令で、かつて隠亡や屠牛の仕事などをさせられていた「ムラ」の人たちも、「お百姓様」も、なべて同等の平民となった。当たり前のことなのに、一部の農民には自分の「格が下がった」ように感じられ、強烈な不満が噴き出した。それが一揆の一因だった。だれかを下げて自分を上げないと存在不安を覚える。最近報道されているYouTuberの大学差別なども、こういう心理に根差しているのだろう。
朝吹の作品では、rigidity(硬直性)に対するfluidity(流動性)が一つの鮮烈な特性となっており、とくに液体へのオブセッションのようなものが感じられる。雨、川、海、波、水流……。例えば、『TIMELESS』にもこんなくだりがあった。「窓の外をみる。雨のむこうに、桜がみえる。ほんとうに吉野山の桜なのかわからない。花筏の川が流れている。花なのか白波なのかわからない。もう一度いなびかりがする。すぐに雷鳴の音がする。<中略>窓の外がいっせいに光る。もう一度光ると、雨の代わりに太太刀が降ってくる。するどい切っ先の刃がきりなく地上に降り落ちてゆく」
これはデビュー小説の『流跡』に始まり、『閉じた目』でも『ゆめ』でも顕著に表れている。『ゆめ』では、同じ夢を見て夢を交換しあう姉弟と、そのふたりを夢に見ている戦時下の女性ピアニストが描かれるが、これらの小説の登場人物たちは、こういう感覚を体験している(ちなみに、どちらの作中にも太郎という男性が出てくる)。
太郎が夢をみている。おふとんのむこうから海がくる。(『ゆめ』)
その声をききながら太郎は眠る。眠るとまたかいまきのおふとんのむこうから海がくる。(同上)
可子のあしのうらに波がくる。ときどき、あしのうらに波が寄る。眠るときにそれがくる。たしかにあしのうらにきているのは波で、ひんやりした水にだんだん体ぜんたいが浸かってそのうちに眠りに引き摺りこまれている。シーツの向こうから海がくる。それで夢をみる。あしのうらに波が寄る。離れる。また寄る。<中略>海が引き潮になるようにして遠ざかる。可子の体のなかの水が、歩くとちゃぼちゃぼと揺れるたびあしのうらの波が退いてゆく。波が運んでくるものがなにかはよくわからない。(『閉じた目』)
fluidityは人間の身体性・身体感覚とも強く結びついていることがわかるだろう。
しかし朝吹の作品には、さらさらと流れる液体だけでなく、体液、粘液、血液、吐瀉物、糞尿、腐敗した果実の汁などなど、粘性をもった液体が精密に描かれる。べとべと、どろどろ、ぐじゅぐじゅと、時におぞましいのに魅惑的で離れられないなにかだ。
こういうものと接するとき、人は身体の境界線が崩れて、内と外が曖昧になる感覚をもつのだろう。そう、サルトルが蜂蜜を異様に恐れたのは、このねばつく流動性ゆえだ。自分がその中に引き込まれて主体を奪われるように感じたのだという。朝吹作品に出てくる流動体も、本能的に冥々たる戦慄を呼び起こす。
朝吹真理子は、前作の『TIMELESS』から歴史に深い眼差しを向けている。『閉じた目』『ゆめ』、そして『信号旗K』でも、一揆や戦争、戦時下の空襲や原爆投下、震災などについて、時間をかけて取材したのが窺われる。ひとはなぜ争い、傷つけあうのか? 一貫した問いかけが根底にある。あなたはこれをどう受けとるだろう。
国際信号旗の〈信号旗K(キロ)〉は「私はあなたと通信したい」という意味を持つという。無線などでこちらの呼びかけに応えない船舶に対して、この旗を揚げて近づき、注意を喚起するそうだ。『信号旗K』の序文にはこう書かれている。「本を読むことは時をまたいだ誰かと交信することでもある。すべての本は、読んでくれるひとを待って、そっと交信希望の旗を掲げているんじゃないかと思う」と。