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孤独と生きづらさをめぐる6つの視点 【じんぶん堂注目記事セレクト】

さえぎるもの一つない南極の大空。夕日に照らされた雲と海が輝いていた=2026年2月10日午後8時52分、南極・トッテン氷河沖、中山由美撮影

〈生きづらさは、誰の問題なのか〉

①「ひとりぼっち」の価値を訴える一冊
『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』書評

記事:筑摩書房

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 コロナ禍を経て、人とのつながりや「居場所」の大切さが改めて意識されるようになりました。その一方で、一人でいることは、どこか否定的に捉えられがちです。でも、「孤独」とは悪者なのでしょうか。

 文学や映画、アニメを通して現代社会を読み解いてきた河野真太郎さん(専修大教授)の『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』(ちくまプリマー新書470)は、『アナと雪の女王』や『ジェイン・エア』など多彩な作品を手がかりに、創造的で幸福な「良い孤独」の可能性を探ります。

 本書を評したのは、医療や福祉の現場を研究し、人々の生きづらさやケアの問題を見つめてきた哲学者の村上靖彦さん。「良い孤独」という言葉に、初めは驚いたそうですが、「悪い孤独」から「良い孤独」への道をどのように見いだせるのか、著者はその問いに丁寧に向き合っている、と評します。

 本書は『アナ雪』の鮮やかな分析から始まる。エルサは、自分が持つ魔法の力という悩みを打ち明けられず悪い孤独に陥る。雪山の氷の城に閉じこもることで、いったんは憂いのない良い孤独を発見するが、力の統御にはいたらない。ようやく最後にアナとの姉妹愛においてエルサは力を統御できる主体となる。ハンス王子との異性愛的で家父長的な愛は偽物であり、同性のきょうだい愛という新たな解決策を提案した。しかし社会的な救済ではなく、あくまで家族の愛情という自己責任の解決にとどめてもいる。

 『アナ雪』は、悪い孤独と良い孤独、家父長制の克服、問題を解決するのは個人なのか社会なのか、という複数の問題を提起するのだ。
(「ひとりぼっち」の価値を訴える一冊 『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』書評 より)

 ただし、「良い孤独」を享受するためには、経済的な安定や他者とのつながりといった社会的な条件も欠かせません。村上さんが注目した著者の視点は、その孤独を可能にする社会のあり方でした。

 良い孤独を手にするための社会的条件がある。その条件が、誰もが生きやすい社会をつくるという理想を要求する。著者は現代の排除型社会とは別の形の社会を構想しようとする。(中略)

 私が最も魅力を感じたのは、著者が思春期に読んだサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を回想した場面だ。社会のなかに居場所を持たない若者ホールデンは、ゲームをしている子どもたちが崖から落ちないように捕まえる役になりたいと、妹フィービーに語る。

「ホールデンがなりたいと言うのは、この社会(ライ麦畑)から脱落する(崖から落ちる)人たちを救う、言わばセーフティーネットのようなものであると。ホールデンは自分も含めて社会に適合できない人たちも排除することのない、前章の言葉では包摂型社会、もしくは理想的な福祉国家のヴィジョンをここで述べているのだ、と。(『ぼっちのままで居場所を見つける』230―231頁)」(同上)

②「『働けない』ことの罪悪感とコンプレックス」「ままならない身体と生きていく」
――絶対に終電を逃さない女さん×栗田隆子さん対談(前・後編)

記事:平凡社

元記事はこちら(前編) (後編)

 心身の不調で、思うように働けなくなる。そんな経験は、決して特別なものではありません。厚生労働省の2025年の調査によると、メンタルヘルス不調で連続1カ月以上休業した労働者がいた事業所は10.8%に上ります。働きたいのに働けない。そんなとき、人はなぜ罪悪感や劣等感を抱いてしまうのでしょうか。働けない状態になってしまうのは、本人の努力が足りないからでしょうか。

 文筆家・絶対に終電を逃さない女さんのエッセイ『虚弱に生きる』(扶桑社)は、生きづらさを抱える読者を中心に人気を呼びました。一方、非常勤職や派遣社員のかたわら、女性の貧困問題や労働問題を中心に発信してきた栗田隆子さんの著書『「働けない」をとことん考えてみた。』(平凡社)が、大きな話題になったのも記憶に新しいところです。そんな二人が、心身の不調を抱えながら生き、働くことの難しさをじっくり語り合います。

終電:私自身、子どもの頃はバリバリ働いている、強くてかっこいい自立した女性に憧れていて、そういう女性になるには「働いて自分で収入を得ていること」が絶対条件だと思ってたんです。だから大人になって、虚弱で働けない自分にコンプレックスを抱くようになったんですが、栗田さんの本を読んで、そんなふうに働くことがすべてではないし、あえて怠けるとか働かずにいるっていうことも、フェミニズムになりうるんだなって。

栗田:怠けるぞって言ってきてよかったです(笑)。ただ、怠けることも案外難しい。私が20代の頃はちょうど就職氷河期で、「自己責任」という考えが広まった時期でもありました。風邪をひいて会社を休むと「自己管理ができてない」みたいな言い方がされだした時期で、それはすごく不本意だなという気持ちがありました。管理しようとしても、どうしようもなく調子が悪いことってありますよね。
(「『働けない』ことの罪悪感とコンプレックス」「ままならない身体と生きていく」――絶対に終電を逃さない女さん×栗田隆子さん対談より)

 働くことへの憧れ。思うように働けない現実。そこから生まれる罪悪感や劣等感――。二人の対話は、「普通」に働くことを当然とする社会の価値観そのものへと向かいます。

栗田:「健常でタフな体が前提の労働環境において、虚弱な身体への配慮はどこまでが合理的なのでしょうか?」という質問も届いています。社会運動の文脈でいえば、「青い芝の会」という身体障がい者による社会運動があり、車いす利用者の人たちが乗車拒否に抗議してバスに籠城した「川崎バス闘争」なども起きました。世間から「わがままだ」って言われてきたことに対して「それは本当にわがままなのか」と問い返すというのは、社会運動の中でも蓄積がある。どこまでが合理的配慮かというのは、私は判断できないけれど、「わがままとはなんぞや」っていうことはけっこう考えてきたように思います。わがままか、わがままじゃないかって、一人では決められるようなもんでもないというか。

終電:私は、自分のことをわがままだとは思ってないです。健康になってもっと働きたいとは思っているし、そのためにいろいろ努力はしてるんですけど、本来だったら社会のほうが私に合わせるべきだと思ってます。だから社会に訴えるためにも「わがままじゃないんだ、こんなに頑張っても虚弱なんですよ」って示していきたいなと。
(同上)

1977年4月12日、国鉄(当時)川崎駅前で脳性マヒの人たちをバスに乗せようとする介護人=川崎市

〈ジェンダーとケアが映し出す社会〉

③「あの頃」の苦しみに、もう一度触れる
――小川たまかさん書評『このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち』

記事:明石書店

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 女性たちが抱える憂うつや苦しみは、どこから生まれるのでしょうか。韓国の著述家ハ・ミナさんは『このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち』(明石書店)で、うつを経験した31人の女性たちの声に耳を傾け、その苦痛を社会の問題として捉え直していきます。

 性差別、不平等、見過ごされてきた暴力。自身も性暴力や性差別を取材してきたライターの小川たまかさんは、本書に登場する女性たちの姿に、かつての自分自身を重ね合わせます。

 正直に言えば、開くのに勇気のいる一冊だった。

 私は性暴力や性差別を主に取材するライターであり、被害後の長い時間をうつなどの症状に苦しんで過ごした人たちを多く知っている。だからこそレビューを頼まれたと思うのだが、この本の著者であるハ・ミナや彼女がインタビューするうつの女性たちが20〜30代だと知って、いたたまれない気持ちになった。

 私は現在40代だが、20代の頃よりもずっと心穏やかに過ごしている。女は若いうちはイージーモードなどといまだに思っている人がいるけれども、そんな単純な事実はない。社会がどれだけ若い女性の自己主張が嫌いかに気づいていないうちでも壁は歴然としてそこにあるし、気づいたら気づいたで社会から切り離されたような感覚になる。

 40代になって数十年前の生きづらさが過去になりつつある今(そして完全に過去になりきっているわけでもない今)、その真っ只中にいる彼女たちの言葉を一つずつ辿っていく作業に情けないけれど足がすくんだ。いくつものページで自分のかけらを発見すると予見できたからだ。彼女たちの怒りは自分の怒りのようで、ニューゼネレーションが今も同じように苦しんでいる現実を見せられるとは、これはやっぱり何かの罰ですかと怯えた。
(「あの頃」の苦しみに、もう一度触れる――小川たまかさん書評『このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち』より)

 この本の第Ⅲ章では、まず自殺について触れられています。本書で紹介された統計によると、韓国では1日に36人が自殺で亡くなっているといいます。また、女性たちが直面する性暴力やミソジニー(女性嫌悪)の問題にも言及しています。一方、日本でも、2025年には男女を合わせて1日平均約53人が自殺で亡くなっています(警察庁統計)。女性たちが置かれた社会的な状況と、心の苦しみとの関係を考えることは、日本に暮らす私たちにとっても決して「海峡の向こうの話」ではありません。

 そして、本書は「ケア」と「回復」へと話を進めます。深刻なうつに苦しむ女性とその恋人の様子や他人へのケア、同じ苦しみを持った集団の中での回復について綴られています。「安易な希望には頼るまいとしつつも、回復に向かう道筋を示そうとしている」。小川さんはそう評します。

 第I章から第Ⅲ章までを読み終えると、ページが進むごとに著者の筆致が柔らかくなっていく印象を持つ。うつを患うと集中力が続かなくなり本を読み進められなくなる一方で、ものを書くことが自分の回復につながっているように思うと、ハ・ミナは何度か書いている。実際、この本を書くことで彼女はひとつかふたつ、心の荷をおろしたのではないか。(同上)

④ 誰もが当事者、ケアをめぐる複雑な力とひずみ
──キム・ユダム『ケアする心』書評(村上靖彦)

記事:白水社

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「ケア」について話が及んだところで、もう1冊。同じく韓国の作家キム・ユダムさんの短編集『ケアする心』(小山内園子訳、白水社刊)を読んでみたいと思います。ケアをする、つまり誰かの心身を支える人自身は、誰に支えられているのでしょうか。この本では、育児や介護など家族のケアを担う人々の、理不尽さや葛藤に満ちた日常が描かれています。

 1983年に韓国で生まれたキム・ユダムさんによる、全10篇の短編集。描かれるのは、家族のなかで生じるさまざまなケアと、それに伴う理不尽さです。誰かをケアする人も、ケアを受ける人も、その営みと無縁ではいられません。読者自身もまた、ケアの当事者なのだと気づかされます。

 本書を評したのは、今回の「注目記事セレクト」の①にも登場した哲学者・村上靖彦さん。医療や福祉の現場を研究してきた村上さんは、この本を通じ、家族のなかで見過ごされてきたケアの負担や、女性に偏りがちな無償の労働に目を向け、専門職による支援が広がった今も残る問題を問いかけます。

 女性の社会進出、スマホとメッセンジャーアプリの普及や、コロナ禍といった現代的な条件は、状況を改善することはない。むしろ束縛を強化する。テクノロジーや感染症のパンデミックにおける統制といった条件のもとでのケアという論点も本書の大事なテーマとなっている。もしかするとコロナ禍こそが、ケアをめぐる不条理を可視化する役に立ったのかもしれない。

 残る問いは、僕がいままでフィールドとしてきたプロのケアについても同じ不当な力が働くのだろうか、というものだ。たしかに、たとえば重い障害をもつ患者の退院にあたって、病院スタッフが家族によるケアを当てにする場面は今でもあるだろう。日本では2000年の介護保険導入以降、プロの支援者が病や障害をもつ人の在宅生活をサポートする仕組みは整ってきた。これは非常に大事な成果であり、ぜひ守らないといけない。しかし同時にいまだ家族ケアに依存している側面はあろう。その場合、本作品に登場するさまざまな葛藤が再現されることもあろう。
(誰もが当事者、ケアをめぐる複雑な力とひずみ──キム・ユダム『ケアする心』書評より)

 誰もがケアの当事者であり、誰もが誰かの支えを必要としています。けれども、誰かを支える人自身のこころは、置き去りにされていないでしょうか。ケアする側と、される側。その双方のこころを大切にするために、家族や社会はどうあるべきなのか。この本が描く日常は、私たち自身にも問いを投げかけています。

商業施設にある「ピョルマダン図書館」。作家のトークショーや音楽と読書を組み合わせたイベントが開かれ、若者が本に親しむ場になっている=2026年10月10日午後0時47分、ソウル・江南、清水大輔撮影

〈痛みを抱え、言葉を紡ぐ〉

⑤慢性痛はなぜ「心身二元論」を揺さぶるのか
――『痛みからの解放』が示す新しい身体観

記事:春秋社

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 検査では原因が見つからない。それでも痛みは消えない――。慢性的な痛みを抱える人々の苦しみは、長らく十分に理解されてきませんでした。ここで紹介するのは、P.A.ラヴィーンさんとM.フィリップスさんの共著『痛みからの解放――トラウマによる慢性痛を癒す内なる力との出会い』(春秋社)。ラヴィーンさんはスペースシャトル開発計画時にNASAのストレス・コンサルタントを務めた経験を持ち、フィリップスさんはトラウマ・解離性障害・疼痛障害治療の専門家です。こころと身体は、本当に切り離して考えられるものなのか。本書は、そんな問いと真摯(しんし)に向き合います。

 この本を訳し、解説記事を「じんぶん堂」に寄せてくださった臨床心理士の志村秀実さんは、痛みを単なる身体の故障として捉える考え方の限界を指摘します。心と身体を別々のものとして扱ってきた「心身二元論」を問い直し、痛みを人間の経験全体から考えることの重要性を説きます。

 モリスは、痛みを「身体の痛み」と「心の痛み」に分断する近代的枠組みを「2種類の痛み神話」と呼んだ。その源流には、デカルトに端を発する心身二元論がある。デカルトが描いた「やけどの痛みの神経伝導路」の図は、刺激が神経を通じて脳へ伝わり、心がそれを知覚するというモデルを示している。

 このモデルは、近代神経生理学と西洋医学の発展に決定的な影響を与えた。しかし同時に、痛みを感覚信号としてのみ扱い、不安や恐怖、記憶や意味づけとの関係を切り離した。慢性痛やトラウマ由来の痛みは、この枠組みでは十分に説明できない。

 慢性痛が突きつけているのは、身体と心を分断する見方そのものへの問いである。身体・感情・記憶・対人関係が切り離せないという事実が、痛みという現象を通して浮かび上がっている。今日、認知科学や哲学の領域では、身体を経験の基盤として捉え直す動きが広がっている。
(慢性痛はなぜ「心身二元論」を揺さぶるのか――『痛みからの解放』が示す新しい身体観より)

「身体を経験の基盤として捉え直す動きが広がっている」――それは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。痛みは身体だけの問題なのか、それとも、こころや記憶、他者との関係とも深く結びついているのか。私たちが自分自身の身体をどう理解するか、その問いをさらに掘り下げる続編の記事も、ぜひお読みください。

続編記事「慢性痛が問い直す人間観――『痛みからの解放』と身体性の復権」 記事:春秋社

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⑥百年前の私小説作家たちの友情と裏切り

記事:幻戯書房

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 時代が変わっても、人は悩み、傷つき、他者との関係に揺れ動きます。最後に、その営みを文学の言葉から見つめ直してみましょう。

 貧困、孤独、友情、裏切り、そして尽きることのない自己反省。百年前の作家たちもまた、ままならない人生を生きていました。大正期の文芸同人誌「奇蹟」に集った私小説作家たちは、友だちをダシに書き、絶交を繰り返しながらも、熱情は棄てませんでした。

『「奇蹟」の人びと 百年前の私小説』(幻戯書房)は、そんな作家たちの作品が集められた一冊です。友人との交流や衝突が、どのように文学へと姿を変えていったのか。編者の尾﨑渡さんが、作品の背景にある人間関係や作家たちの素顔を読み解きます。

 なかでも谷崎精二の短編「友だち」には、親しいからこそ生まれる感情の衝突と、言葉にしきれない思いが描かれています。尾﨑さんはこう評します。

◆谷崎精二「友だち」 「新公論」大正6年(1917)10月号
「友だち」は、送別と祝賀を兼ねた小宴の一夜と、その翌朝の別れを軸に、二人の青年の関係を描いた短篇である。ここに描かれているのは物語として誇張された友情ではなく、むしろ日常の延長線上にある関係である。

 片野の粗放な振る舞いに主人公は怒り手をあげるが、その感情は断絶には至らず、物語は翌朝の駅での見送りへと続く。発車の喧噪に紛れながら片野が感謝の言葉を口にする終幕には、和解というよりも、言い尽くされなかった感情の気配が映されている。

 列車で去る者を見送るこの結末は、先に掲げた光用穆「旅立ちの日」とも重なるものがある。場面の配置や台詞の調子にまで共通性が見られる点は興味深い。

 本作の調子を理解するうえで、舟木重雄による谷崎精二の人物評は示唆的である。舟木は「谷崎精二氏の印象」(「新潮」大正8年[1919]9月)において「社会を重んずる彼は、社会道徳を重んずる彼である。彼は、責任、約束、実直、堅実、礼譲、謙遜、摂生……の諸徳を重んずる」とし、(中略)

「友だち」に描かれる友情の距離感や感情の衝突、そして別れに際しての過度な饒舌を避けた表現には、こうした谷崎精二の性格がよく現れているのではないだろうか。
(百年前の私小説作家たちの友情と裏切りより)

 友情を育みながら、ときに衝突し、別れを経験する。百年前の作家たちが描いたのは、そんな人と人との関係の複雑さでした。言葉にしきれない思いを抱えながら、それでも人は誰かと関わり、生きていくのです。

 私たちのこころもまた、一人きりで存在しているわけではありません。孤独や痛みを抱え、ときに誰かに支えられながら生きる。その姿は、百年前の文学にも描かれていました。時代を超えて残された言葉に触れることで、いまを生きる私たち自身のこころも、少し違った角度から見えてくるのではないでしょうか。

日本近代文学館発行の「奇蹟」復刻版