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「高倉健―七つの顔を隠し続けた男」書評 虚像と実像が刺し違える危うさ

評者: 横尾忠則 / 朝⽇新聞掲載:2017年11月05日
高倉健 七つの顔を隠し続けた男 著者:森功 出版社:講談社 ジャンル:エッセイ・自伝・ノンフィクション

ISBN: 9784062205511
発売⽇: 2017/08/30
サイズ: 20cm/287p

高倉健―七つの顔を隠し続けた男 [著]森功

「健さん」の愛称で親しまれた高倉健が逝って3回目の命日(11月10日)が5日後にやってくる。
 1960年代の東映任侠(にんきょう)映画の「日本侠客伝」第一作から遺作「あなたへ」までの健さんの中にみた死を抱きかかえる彼の肉体の美学から僕は目が離せなかった。ところがその肉体の死と同時にメディアやジャーナリズムは地中に眠る巨人ゴーレムを白昼に引きずり出す作業を始めた。
 スターの宿命でもある健さんの私生活は常に闇の中に幽閉され、彼の寡黙さと同様、凍結した厚い沈黙の壁があった。それが崩れ始める時、そこから浮上してくるのは義理と人情を秤(はかり)にかけたような迷路化した複雑な人間関係である。任侠映画を地でいくような人生の裏街道のるつぼの中で人間高倉健の苦悩は頂点に達するかのように映る。
 やくざ役の健さんが実像と同一化されていくことに迷い、同じ一体化するならもう少しマシな人間像を演じる作品と出合い、それを実現してくれる監督と組むことで虚像と実像の新たな一体化を図ろうとする。そこに彼の死生観を位置づけることで、彼の本能は原郷に戻ろうとしたのだろう。
 健さんは自らを不器用な人間と認めることで極力「演技」の枠の外で演じようとする。不器用さをカムフラージュすることで自然体としての高倉健を演じればいいわけである。ところが映画の中の健さんと映画の外の健さんの区別が次第に曖昧(あいまい)になってくる。むしろその方が自然体としての演技ができると思い始めたのだろう。しかし、映画の中で実像を、現実生活の中で虚像を無意識に演じているという二面性に気づき始める時、新たな苦悩に襲われる。つまり両者が刺し違えることになるからだ。
 ここで浮上するのが表現の問題である。もし高倉健が、高倉健を演じ始めるとそこに創造上の破綻(はたん)が生じ始めはしないか。芸術が必要以上にマジになることの危険性がここにある。
    ◇
 もり・いさお 61年生まれ。ノンフィクション作家。著書に『サラリーマン政商 宮内義彦の光と影』など。