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大城立裕さん、芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を語る 「米琉親善」の仮面はぐ

 戦後すぐに、沖縄の現実は小説になると言われていたんですよ。ところが技量も拙(つたな)いし、現実が複雑だったので、とても向き合えませんでした。やがて米琉親善と言われるようになり、その親善に疑問を持った訳です。一皮むけば治外法権の悲劇がある。仮面をはがないといけないと思いました。
 米兵の強姦(ごうかん)事件を描きましたが、彼は治外法権にどっぷり寄りかかりながら、沖縄の人と親しみをもって付き合います。米軍基地で開かれる和気藹々(あいあい)とした「カクテル・パーティー」の裏に、悲劇があるというプロットです。
 私は終戦直後、日本復帰でも良く、信託統治でも独立でも良いと、1950年代半ばまで、もやもやしていました。「祖国復帰運動」には素直にのれなかった。でも55年に幼女が米兵に殺される残酷な事件があって、治外法権で裁けなかった。
 抜け出すにはどうしても、憲法が必要だ、と考えました。復帰しないとだめだと。私は背水の陣のような気持ちでいました。復帰に唯一、治外法権の撤廃だけをかけていた。ところが復帰しても、全くその気配がない。いまも、その願いは裏切られています。
 「カクテル・パーティー」がいつまで読まれるかというと、この現実が続く限りでしょうね。占領時代よりかなり圧迫感は薄れて、読んでも分からない若い人がいるようです。目にしている現実と違うということなんでしょうね。でも一皮むけば、同じことです。
 作品の後章が主人公を「お前」と呼ぶ二人称なのは、自己反省を促すためです。沖縄の記者は「二人称が読者に問題を突きつける」と書きました。
 いまは沖縄が反省する状況ではありません。日本政府の沖縄に対する差別意識をなくすしかないと思います。琉球はもともと日本じゃないんだと。軍事植民地がほしいから、明治時代に琉球を日本に組み入れた「琉球処分」で帰属させたんだと。その結論が沖縄戦です。捨て石にした。どんな犠牲を出してもいいと足止めに使った。
 米国との親善は変わらずあります。善意の親善があるのは疑いないことです。問題は善意の中に、自己反省の認識があるかどうかでしょう。
 でも米国より、日本政府の方が差別意識を持っているんじゃないですか。例えば基地の県外移設は難しい、と言う。既成事実として沖縄に押しつけていた方が楽なわけですよ。もともと差別意識をもっているから「粛々」と進めればいい。日本政府が希望しているから、米国はそれにつきあっているんじゃないかな。構造的な差別です。
 現実をどうするか。短編「普天間よ」に上空をヘリコプターが飛ぶ中で、娘が琉球舞踊を踊る場面を書きました。ヘリの音が踊りの音楽を消す。ところが娘の踊りの技量が確かなおかげで、ヘリが去っても音楽と踊りが乱れなかった、というものです。これは固有文化への自信であり、その抵抗力に対する自信です。原点は「カクテル・パーティー」にもあります。「私」の娘を強姦した米兵は、ぜんぜん反省がない。それが分かったとたん、「私」が抵抗継続に踏み切るしかないと米兵の告訴を決意するところですね。
 具体的な解決策がない限り、抵抗し続けるしかありません。(聞き手・高津祐典)=朝日新聞2015年6月23日掲載