現在、社会のモードの問い直しが起きている。全体秩序と大量生産を重んじる近代初期のモードをだらだらと継続してきたことで、人々の個性にマッチしない制度が温存されてしまっている場面は多い。働き方問題もさることながら、教育現場もその一つだ。
教育とは大人が子どもに一方的に与えるものではない。教育とはeducationの訳語であり、この言葉は明治期に入ってから使われるようになった。元のラテン語からは「引き出す」(educere)という意味の言葉が作られており、いま改めて「子どもたちの能力を引き出すもの」という教育の役割が問われるようになっている(『はじめての子ども教育原理』福元真由美編、有斐閣・1944円)。
日本の部活動も、いま問い直しの時期に来ている。部活動はとても不思議な位置づけにある。『そろそろ、部活のこれからを話しませんか』によれば、9割の中学生、7割の高校生が部活に入っている。にもかかわらず、「子どもは部活をするように」等と定められた法律はない。あくまで、学習指導要領の中で、「自主的、自発的な参加により行われる」ものとされている。
脱ブラック化
しかし、子どもの自主的な活動と言いつつ、強制加入や理不尽指導などが横行している。また、その顧問となる教員に、その部活内容に関する経験がないこともしばしばだ。教員は子どもの最も身近な社会人であり、また一番最初に触れる科学者でもある。だが、大人社会ではあり得ない非科学的な理不尽に耐えることが、通過儀礼だと言わんばかりの学校慣習が横行している。一方で、理不尽を告発したりストレスから逃れるための手段は教わらない。
『部活があぶない』では、様々な教育現場での、ブラック部活を描いている。同調圧力が高まり、ハラスメントなどが横行する部活動という形態に、生徒も教員も押しつぶされている風景が活写されている。前半は読んでいて苦しくなるが、後半では脱ブラック化した部活の事例も紹介されていて希望がある。
『ブラック部活動』では、部活問題が鮮やかに整理されている。その中で、生徒も教員も保護者も、「自主性」ゆえにブレーキが利かず過熱していく様子も指摘されている。
著者の内田氏は部活問題や組体操問題など、日本の教育現場で起きている様々な現象について疑問を投げかけ続けてきた。根拠と発信で社会は動くのだということを態度で示している実践者でもある。こうした問題提起は、しばしば「学校嫌いゆえの部活叩(たた)き」と反発を買う。だが、誤解してはならない。部活そのものを否定しているのではなく、部活のブラック化を防ぎ、みんながより幸福になれる道を探ることが重要だということだ。
過熱を防いで
『そろそろ~』では、日本の部活動が、海外の部活等と比較して特異な形態であることに触れ、様々な代替案のメリット・デメリットも分析している。例えば部活動をなくし、すべてを「習い事」化させると、貧富の差によりスポーツ・文化活動の接触機会が左右されるかもしれない。そうした点も鑑みて、今の制度の評価できる点は残しつつ、子どもと教師の生活や生命を守り、趣味や人生を「楽しむ」ことを学べる場として部活を位置づけなおそうと提言している。
『ブラック部活動』では、部活を行う時間の「総量規制」を導入して過熱を防ぐことを提案する。また、部活動の「居場所」としての役割を評価し、地域単位の分散化も構想する。素晴らしいと思うのは、ここにあげた3冊すべての部活本が、「未来の形」を創造しようとしていること。よりよい未来を共に作りたい=朝日新聞2017年9月10日掲載