ある程度の年齢になるまで「お寿司(すし)屋さんのカウンターで、お好みで握ってもらう」というのは、おとなの特権だと思っていた。寡黙な店主と向き合って、ネタケースの中を覗(のぞ)き込みながら、自分なりのストーリーなど組み立てて、白身から順にぽつぽつと注文するなんて、とてもとても、子どもに許されることではない。それは、寄席に行く前にお蕎麦(そば)屋さんに立ち寄ってかけ蕎麦と一緒にぬる燗(かん)を一杯やるのと同じくらい、またはワインリストの用意されている店に行き、ソムリエからある年の降水量やその畑の土壌などを聞いた上で、今日の料理に合うワインを選び出し、まずグラスに注がれた液体の色合いと香りを味わいながら料理を待つのと同じくらい、言うなれば贅沢(ぜいたく)でハードルの高いものだ。で、あるからして、一体いくつになったらそういうひとときを楽しめるものだろうかと、ワクワクしていた。
ところが、気がついたらひょいっとそのハードルを越えてしまっていた。自分で「えいやっ」と越えたというよりも、舌の肥えた、または場慣れした誰かに連れて歩かれているうちに、小生意気な顔をして大した緊張感もなく、すっとカウンター席についてしまったという感じだ。あの日、もっと「儀式」として意識すればよかった、どこの、どんな寿司店で、まず最初どんなお造りから頼んだかも覚えておくんだったと、今になって残念に思う。
何しろその日以来、私にとって寿司は「折詰(おりづ)め」や「桶(おけ)」の中などで行儀良く、またはぎゅうぎゅう詰めに並ぶものではなく、清潔な付け台に単体で、艶(つや)めきながらふんわりと置かれ、ものの数分もたたない間に人の胃袋におさまってしまうという、実に儚(はかな)い運命を背負った、シンプルかつ非常に美しい料理の一つとして燦然(さんぜん)と輝き出したに違いないからだ。
あれからいく垂れくらいの暖簾(のれん)をくぐり、どれほどのネタを食べてきたことか。東はニューヨークから西は沖縄、台湾まで、旅先でも寿司店を見つけると、まず入ってみたくなる。そして、自宅近くには顔なじみの店を持つようにもなった。なじみが出来ると、わがままも言うようになってくる。それが、私の場合は「海苔(のり)巻き」だ。何と、にぎり寿司礼賛型から、一歩前進したのである。店が混雑しているときには遠慮するが、ちょっと手が空いていそうだと、普通は握りでいただくネタでも、とにかく細巻きにしてもらう。しゃり、ネタ、そして海苔とのハーモニー。これが何ともたまらない。先日、ついに聞かれた。
「結局、何のネタが一番すきなの」
「海苔かな」
即答する私に、尋ねた相手も寿司店の親父(おやじ)も、脱力した顔をしていた=朝日新聞2018年03月10日掲載
編集部一押し!
- インタビュー 向坂くじらさん「ことぱの観察」インタビュー 友だちとは? 愛とは? 身近な言葉の定義、新たに考察 篠原諄也
-
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 梨さん×頓花聖太郎さん(株式会社闇)「つねにすでに」インタビュー 「僕らが愛したネットホラーの集大成」 朝宮運河
-
- えほん新定番 井上荒野さん・田中清代さんの絵本「ひみつのカレーライス」 父の願いが込められた“噓”から生まれたお話 加治佐志津
- 新作映画、もっと楽しむ 映画「雪の花 ―ともに在りて―」主演・松坂桃李さんインタビュー 未知の病に立ち向かう町医者「志を尊敬」 根津香菜子
- インタビュー 村山由佳さん「PRIZE」インタビュー 直木賞を受賞しても、本屋大賞が欲しい。「果てのない承認欲求こそ小説の源」 清繭子
- インタビュー 「王将の前でまつてて」刊行記念 川上弘美さん×夏井いつきさん対談「ボヨ~ンと俳句を作って、健康に」 PR by 集英社
- インタビュー 「王将の前でまつてて」刊行記念 川上弘美さん×夏井いつきさん対談「ボヨ~ンと俳句を作って、健康に」 PR by 集英社
- 北方謙三さん「日向景一郎シリーズ」インタビュー 父を斬るために生きる剣士の血塗られた生きざま、鮮やかに PR by 双葉社
- イベント 「今村翔吾×山崎怜奈の言って聞かせて」公開収録に、「ツミデミック」一穂ミチさんが登場! 現代小説×歴史小説 2人の直木賞作家が見たパンデミックとは PR by 光文社
- インタビュー 寺地はるなさん「雫」インタビュー 中学の同級生4人の30年間を書いて見つけた「大人って自由」 PR by NHK出版
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社