小学生のころ、母親が「食べてすぐ寝ると牛になる」と言った。以来、牧場へ行くたびに「この牛の前世は誰だったのだろう」と考えた。石川県能登町の畜産センターへ行くと黒毛和牛が大量の干し草を食べていた。クローバーやオーチャードグラスなど牧場で自前の干し草ができる。草刈り機をトラクターでひっぱって刈りとり牛舎へ運んでいる。
牛の顔をジロジロ見ていたら、漱石の門弟・内田百閒(ひゃっけん)に似ていた。百閒先生は食い道楽の人で、晩年は心臓と腎臓が悪くなり、主治医から「牛肉を食べるな」と固く禁じられた。すると、百閒は「牛の本質は藁(わら)である。藁を牛の体内に入れて蒸すと牛肉になるのだ」と反論し、牛肉のすき焼きを藁鍋と言いかえて食べていた。
能登牛は血統書がついている。特上A5のステーキはメスであった。オスは生まれてすぐに去勢する。去勢しないとケモノの匂いが残る。メスには子を産んでいない牛と、産んだ経産牛があり、経産牛の中でも一、二回出産した牛がいいという。特上A5の最高級牛肉でも、オス肉とメス肉があるのだ。
何ものかを食べるというのは、じつは恐ろしい行為である。食うほうが加害者で、食われるほうが被害者となるが、一寸法師を食べてしまった鬼は、一寸法師に退治されてしまう。食べられたものはエキスが抽出されて体内に残って体の一部になる。簡単にいうと食べた側の肉体に同化してしまう。こちら側が加害者として征服したものが転じて自分となる。いっさいの肉食動物は、体内に、厄介な一寸法師を下宿させているのです。
可憐(かれん)な孫に対して「食べてしまいたいほどかわいい」という人がいる。「食べることによって孫と一体化してしまいたい」という欲求で、おそろしいことを考えている。また「目の中に入れても痛くないほどかわいい」という。これも同じで、孫を右目から入れて左目から出してみたいのである。
こう考えてみると、食欲はどうしようもない人間の強欲で、その欲求度は性欲よりも強い。
毒見(どくみ)というものがある。
殿様が食事をする前にまず試食をして、毒でないことを証明してみせる。戦国時代は武将が毒殺される危険があった。毒見役のことを鬼役という。鬼は身体強健でなんでも平気で食べる。鬼が食べてみせたのに、主客が食べて死んじゃったらどうするの。
現在の食味評論家は、毒見役こと鬼役の生まれかわりである。私もそのひとりで、ありとあらゆるものを毒見しているうちに胃袋が鬼と化してしまった。こういう毒見役の言うことをうのみにすると弊害が生じる。申し訳ないことだと思う。=朝日新聞2018年02月17日掲載
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