江戸は世界に類例がないほど火災が多発した。昨年12月、糸魚川で大火があった。焼失面積は約4万平米。都市防災が専門の西田幸夫氏によれば、江戸の町では今回の糸魚川のような3万平米(約1万坪)を超える大火が毎年のように起こっていた。江戸が東京となり1900年ごろに消火栓ができるまで、大火は日常であった(辻本誠著『火災の科学』=中公新書ラクレ)。当時の日本都市は木造家屋が過密に集中していたからである。
江戸は火事前提
江戸時代の日本人口は3千万人。米作地域で高度な農業社会だから人口密度が高い。しかも徳川将軍や大名は天下泰平のため自分の膝元(ひざもと)に家臣を集住させ、恐ろしい過密都市ができた。武家の消費を担う町人は狭い空間にひしめいた。屋敷面積が身分格式の証しで、町人は武家より狭い空間に住むのが社会の基本。幾度、火災にあっても、火除(ひよ)け地を設けるだけで、町人住居をひろげる発想はなかった。むしろ、頻発する火事が前提の社会で、武家や土地持ちの豪商ら金持ちが、火災のたびに屋敷を建て直し、結果的に、火災は大工など庶民に富を分配する機能をもった。だから、放火も多かった。
江戸では住民は穴蔵をほり、火事の時はそこに家財を投げ込み身一つで逃げた。穴蔵で、江戸の十分の一が穴になったともいわれる(『江戸の火事』)。乾燥した日に大風が吹くと江戸の店では土蔵に粘土で目張りをした。なければ味噌(みそ)で蔵を封じた。江戸に比べ、京・大坂では、火事の頻度が少なかった。比較経済史が専門の斎藤修氏によれば、江戸は裏店(うらだな)の世界、大坂は商家の世界である。江戸は独身男が長屋で暮らし、酒に寝たばこで火元管理が難しい。一方、大坂は商家に住みこむ手代・丁稚(でっち)らに厳しく火の用心をたたきこんだ。
ただ、京・大坂にも大火はあった。『銀二貫』は大火のなかを生き抜く、京・大坂の商人の暮らしを描いた時代小説である。町の庶民の運命は火事が握っていた。しかし「大火が町を焼き尽くす度、人々は店を普請し、商いを再開し、幾度となく立ち直る」。前近代の日本人の火事とのつきあいかたを良く言い表している。江戸では店の焼失は織り込みずみで、大店(おおだな)はしばしば郊外にプレハブのような店の建築部材をあらかじめ用意していた。それで火事場の灰が温かいうちに営業を再開する店もあった。
近現代の大規模火災のパターンは二つ。大型ビル火災と、主に日本海側の港町が乾燥風(フェーン)にあおられた火で焼き尽くされる大火。後者は函館(1934年)、魚津(56年)、酒田(76年)などで起きた。港町は木造家屋が密集。ここで起きる大火の分析で参考になるのが、夏目漱石の一番弟子で物理学者の寺田寅彦の文章。「函館の大火について」(『天災と国防』に収録)である。
「各自が覚悟を」
「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」というが、寺田は江戸で華であったのは、火事ではなくて、江戸の火消(ひけし)=消防機関の活動であった点を忘れるなと釘を刺す。火災の科学知識の教育普及と、学際的な火災の研究の必要を説く。「全国民は函館罹災(りさい)民の焦眉(しょうび)の急を救うために応分の力を添えることを忘れないと同時に各自自身が同じ災禍にかからぬように覚悟をきめることがいっそう大切」と寺田は訴える。函館を糸魚川と換えれば、そのまま我々にあてはまる言葉だ。
現代社会は、建物の高層化・深層地下化、そして新素材の使用など、新しい火災リスクがいっぱいで、そこに高齢化という人間側の問題が加わる。寺田の警句をかみしめたい。=朝日新聞2017年2月5日掲載