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日ソ共同宣言60年 内外の冷戦、領土問題が混乱

日ソ共同宣言に調印する鳩山一郎首相(左)とブルガーニン首相=56年10月19日、モスクワ、AP

 12月15日、山口県でプーチン大統領を迎えて日ロ首脳会談が開かれる。戦後70年余、いまだ締結されていない日ロ平和条約への期待が高まっている。
 その際、60年前に双方が批准した歯舞・色丹の引き渡しを約した「日ソ共同宣言」を中心に、議論が展開されるだろう。あらためて当時の交渉を正確に理解する必要がある。
 出発点は1955年1月25日だった、と若宮啓文は遺著『ドキュメント 北方領土問題の内幕』で指摘している。若宮は4年前、プーチン氏から「領土問題は『引き分け』がよい」との発言を引き出したベテラン記者で、父は鳩山一郎首相の秘書官だった。ソ連代表が初めて鳩山を訪問した日付(=出発点)を特定するなど、交渉全権代表だった松本俊一の『日ソ国交回復秘録』や駐米・駐ソ大使を務めた下田武三の『戦後日本外交の証言』の誤解を正している。この3冊をもとに交渉を振り返ろう。

2島案の浮上

 55~56年は、内外ともに危機の時代だった。国内冷戦と国際冷戦とが絡みだしていた。ソ連ではスターリン批判による大激動が起きる。朝鮮戦争の休戦後、東アジアは熱戦から冷戦の時代となった。米ソ中のイデオロギーと領土をめぐる対立だ。
 日本国内では、鳩山の民主党と吉田茂の自由党が「保守合同」して自由民主党が結成され、左右社会党も一本化して、55年体制が形成された。内政は外交と直結、分裂と抗争が交錯する。
 そもそも、「北方領土」とはどこか。51年のサンフランシスコ条約で、日本は「千島列島」を放棄したが、その範囲については記述がなかった。当初、日本政府は、国後・択捉は放棄した千島列島に含まれると解釈していた。国後・択捉と歯舞・色丹の4島を、日本固有の「北方領土」だと定式化したのは56年3月になってからだ。
 ソ連の第1書記フルシチョフは、55年8月、日本側に歯舞・色丹の2島引き渡しでの解決を示唆した。しめたと思った全権代表の松本は外務省に報告するが、外相・重光葵(まもる)は首相の鳩山に伝えなかった。親米の吉田派や外務官僚らが混乱させた。

日米ソに事情

 これまで、55年体制と日ソ交渉は別々に語られてきた。若宮はこの二つを架橋し、交渉が60年後も未完である「内幕」を明かしている。国内政界の親米派と独立派、外務省内の各派が謀略まで尽くした日ソ交渉ならぬ「日日」交渉だった。
 米ソにも事情があった。米国が占領していた沖縄は「南方」領土という扱いになっていた。のちに2島返還での妥結に傾いた重光に対し、米国務長官ダレスは沖縄を返さないと牽制(けんせい)した。国後・択捉がソ連領になるのなら、沖縄は手放せないというのが米国の姿勢だった。
 フルシチョフも守勢だった。自ら始めたスターリン批判が、東欧の反乱に飛び火した。保守派による巻き返しも起こり、対日交渉上の立場を弱めていた。共同宣言の調印前日、一度は日本側に提案した「領土問題を含む平和条約」という表現から、「領土問題を含む」という部分を削除させた。相手は全権の一人、農相・河野一郎だった。
 56年10月19日、鳩山とソ連首相のブルガーニンが日ソ共同宣言に調印した。フルシチョフは東欧反乱対策で不在だった。両国は国交を回復し、戦争状態を終えたが、宣言に「領土問題」という言葉はなかった。領土問題の継続審議を確認した、第1外務次官グロムイコと松本の往復書簡を同時発表することを双方が了解、日本側は「領土問題」が存在していると「解釈」した。その後の平行線の始まりだった。
 こうして60年続いた「アジア冷戦」。今回の交渉で、終止符を打ってほしい。=朝日新聞2016年10月9日掲載