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「モモ」と、資本主義と、人生の味わいと

文・写真:藤巻亮太(写真はいずれも2017年の年末、寒波に襲われたニューヨークで)

 僕らは「時間」を旅する存在だ。時計はチクタクチクタクと誰にでも共通に、普遍的に1秒を刻んでいる。だから電車は時刻通りにやってくるし、僕らは約束通り集合場所で出会う事ができる。しかしそれなのになぜだろう? 楽しい時間はあっという間に過ぎ、退屈な時間は長く感じる。映画館で同じ映画を観ていても、それぞれの観客に流れる時間の感覚は等しいとは言えないだろう。そう考えると、時間とはとってもパーソナルなものとも言えないだろうか。

 『モモ』は児童文学の傑作と称される。それは「時間」というものの在り方が読者に深く迫ってくるからではないだろうか。僕は最近になって初めてこの本を読んだ。つまり一般に大人としてこの本を読んだのだが、大人にとってモモの世界は恐怖以外のなにものでもないだろう。大人こそ読むべき本かもしれない。

 モモの世界には、時間どろぼうなる者が存在する。彼らは人間の元にやってきて、あなたは時間を無駄にしている、時間を節約し、貯金しろと迫る。彼らの罠に落ちた人間は、次々と自分の時間を明け渡し、効率と合理が支配する世界で、焦り急ぎ駆り立てられるように生きるようになる。やがて人々は疲れ怒り、果てに感情さえも摩耗してゆく。そしてなぜ自分がこれほど苦しく生きているのか、その理由さえも分からなくなってしまうのだ。

 これはモモの世界、つまりおとぎ話なのだろうか。

 資本主義は経済成長を前提に我々に労働を迫ってくる。無駄を省き徹底的に合理化してこしらえた時間に、更に新たな労働を詰め込んでまで人々に経済成長を迫る。個性なんてものは扱うのに邪魔だから、画一化して均質化して、僕らは同じようなものを見て、聞いて、食べて。同じようなことを考えて、マーケティングしやすいような行動パターンをとるよう矯正され、生きて、やがて死んでゆく。まるで一回しかない我々の人生の時間が物のように扱われている。ひどく乱暴に書いたが、資本主義社会で生きる我々はこのような現実を否定しきれるのだろうか。

 モモの世界には、マスター・ホラなる「時間」を人間に配る役目を司る超越的な存在が登場する。彼は言う「時間とは心だ」と。見たこともないようなあまりにも美しい「時の花」が人の心には生まれ咲いて散ってゆくのだと。

 主人公は未開の地の住人のような風貌の少女モモ。彼女には特殊な「聞く力」が備わっている、それは人の心を聞く力だ。相手はモモと話していると、些細で取るに足らないような日常の出来事であっても、そこに人生の意味がぎっしり詰まっているように感じる。つまり生きている時間、全てに意味があるのだと・・・・・・。時間どろぼうが騙して無力化したいものは人生の意味、味わいなのかもしれない。そして時間を盗んでゆくのだ。

 物語ではモモも、時間どろぼうの身も凍るほどの冷たいネゴシエーションや攻撃に晒される。登場人物の一人一人があまりにメタファー的であり、哲学的だ。物語のもっと奥に更に深い意味が隠れているのではないかと思わせる魅力がある。何度も読み返したくなる本だ。

 この人生という僕らの旅にとって、時間とは物なのか。時間とは心なのか。