一目惚れだった。
地元大阪の茨木にある小さな本屋で出会った。表紙に痺れ、タイトルでやられた。一ページも読んでいないのに絶対に面白いとわかる小説が稀にある。本全体からオーラが満ち溢れているのだ。
それが、村上龍の『69 sixty nine』だった。
ゲラゲラと笑った。小説に出てくる詩人やロックミュージシャンは十五歳の俺は知らないし、舞台となる長崎の佐世保には行ったことなかったけれど、主人公の男子高校生と一緒に青春を思う存分堪能した。
最高の読書体験だ。本を閉じたあと、どうしようもなく胸が躍って家の前の坂道をダッシュした。
偉そうに呼び捨てにしてしまったが、俺の心の師匠である。まだ、会ったことないけど。会ったらたぶん、地蔵のように固まってしまうだろう。
『69 sixty nine』は、龍師匠の半自伝的小説だ。
小説家になってわかったのは、作品の中に自分自身を登場させるのが一番難しい。探偵や悪党や絶世の美人や生意気なガキなど様々な人物を描くが、彼らを通して自分の言葉を語らせるから堂々と書けるのであって、作者本人となると勝手が違ってくる。
「ありがとう」
このたった一言ですら躊躇する。
大阪出身なので「おおきに」のほうがいいのではないか、いや普段そんな口調ちゃうし、漫才になってまうやんとか。当然、周りの登場人物も実在のモデルがいるわけだから気を使ってしまう。だからと言って、遠慮して面白くなくなれば元も子もない。半自伝的の“半”が付いているから何とか書けるようなものだ。
龍師匠の『69 sixty nine』は読んでいる側には登場人物への遠慮を一切感じさせない。とにかく痛快だ。龍師匠の神経が図太いのか、文章の技術がずば抜けているのか。願わくば後者であって欲しい。
小説家を続けていると、何をどう書けばいいのかとハタと立ち止まってしまうことがある。文章に正解はない。書けば書くほど底なし沼に沈んでいく感覚に襲われる。
そんなときは、本棚から『69 sixty nine』を引っ張り出してきて読むことにしている。頭を空っぽにして、十五歳の読書体験を思い出すためだ。読み終える頃にはスランプを脱出して、小説家を生業にする喜びが復活する。
龍師匠、毎度ありがとうございます。
俺の二人の息子は小学生だ。彼らが中学生になったら渡す本は『69 sixty nine』と決めている。息子たちは、きっと本を読みながらゲラゲラと笑うことだろう。今から待ち遠しくて仕方がない。