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佐藤泰志が描いた青春の「空気」伝えたい 「きみの鳥はうたえる」監督・三宅唱さん

文:野波健祐、写真:斉藤順子

――原作小説は、書店員の「僕」と同僚の「佐知子」、同居人で失業中の「静雄」、3人の微妙なバランスで成り立つ気ままな日常を描いた青春物語です。どういう経緯でこの作品を映画化することになったのですか。

 函館シネマアイリス(注・熊切和嘉監督「海炭市叙景」を皮切りに3本の佐藤作品の映画製作をしてきた映画館)を経営されている菅原和博さんから、ある日メールが来たんです。この印象的な男2人女1人の物語は、ベテランの監督でも撮れると思うけれど、登場人物たちと似たような年齢の若い監督にとって欲しい、といったことが書かれていまして。僕が北海道出身だったこともあったとは思うんですが、それでお話をうかがって、引き受けたんです。

――もともと佐藤作品には親しまれていたのでしょうか。

 小説を読んだのは初めてです。ただ読む前に、原作映画を見たり、若くして自死した本人の略歴を知ったりしていて、勝手なイメージを抱いていました。生きるつらさや社会の暗い部分を誠実に見つめる人という印象を持っていたし、それは間違ってはいないと思うんですが、実際に読んでみると、「これは知っている」という親近感を覚えました。僕が生まれる前の時代の話ですから、ディテールは知らないことがいっぱいありましたけど、主人公の「僕」が考えていることを僕は知っていた。人を愛する喜びとか、どう楽しく生きるかとか、明るさや喜びについても、同じくらい誠実に描こうとしていた人なのかなと思いました。

――脚本も三宅さんが書かれています。原作を映像にするって難しいんですか。

 原作ものの映像化は初めてですけど、もともと挑戦したいと思っていたし、できるだろうと思っていたし、楽しい作業でしたね。いままでも何かしらのテーマを与えられて作ってきたので、今回はそれが原作だった。小説は約40年前の東京が舞台ですが、場所を函館に移すというのは最初から決まっていた。あとは、時代を中途半端にわからなくするのではなくて、思い切って現代に振りました。(撮影した)2017年の設定にして、原作で魅力的に描かれていた文化や風俗などのディテールを少しずつ置き換えていった。あとは原作の核にある部分にどうたどりつけるか。小説の根っこというか核の部分、佐藤さんが描こうとした動機だったり願いだったりを共有さえすれば、時代や場所といった表面が変わっても同じ所から出発できると思っていました。

――核の部分とは。

 3人の登場人物が、誠実に生きたいとか、幸せになりたいとか、どのように生きるべきかを真剣に考えている人物だということですね。それはいつの時代にも絶対に必要なこと。幸福の追求というと大げさかも知れませんが、現在でも、日々の暮らしの中で、自分でどのように楽しみを作り出していくのかは、本当に大切なことだと思います。たとえば、音楽を聴く、本をよむ、恋をする、そうした楽しみが小説の中に全部描かれている。人は、映画を見て、本を読んで、恋をして、酒を飲んで遊んで幸せを感じるべきだと思うんです。

 函館はロケハンで初めて行って、すごく新鮮でした。初日に文学館や歴史資料館に行ったというのもあるのですが、しばしば「ハイカラ」と言われる独特の都市文化がありました。日本のどこにでもある寂れた地方都市の一つでもなんでもなくて、働きながら週末にバンド活動をしていたり、酒場ではちゃんとした大人がジャズを聞きながらお酒を飲んでいたり。ある種の楽しさや明るさみたいなものがあって、そこにひかれましたね。映画でいまの時代を見せたいと思ったときに、そういう明るさを探していたから目に入ったというのもあるのかもしれませんが。

©HAKODATE CINEMA IRIS

――3人の主要キャストが、実に伸び伸びと演じているように見えました。配役はすんなり決まったのでしょうか。

 小説の語り手でもある「僕」の柄本佑と、静雄役の染谷将太とは以前から友人関係だったので、原作を読みながら、2人しかないと。佑はほんと「かっこいい男」なんですよ。彼がスクリーンの真ん中を占めて生まれてくる色気みたいなものが爆発するような映画を撮りたいとずっと思っていて。「僕」ってほんと謎めいていて、ぱっとわかるといいがたい人物なんですが、「僕」を佑に当てはめて読んでいって全く違和感がない。ぐいぐい読めていった。静雄は、とにかく優しい登場人物なんですけど、将太が演じることで、どこかある男らしさというか、芯の通った男の部分がみえるようになりました。

 佐知子は、どんなところに住んでいるのかも実はわからない謎めいた女性なんですが、原作を読んでいて、佐知子という人物をどれだけ魅力的に描けるかに、この映画はかかっていると思ったんです。彼女が全くつまらない女だったら、映画は成立しない。石橋さんとは、この話があった直後くらいに、プロデューサーから偶然紹介されました。昨年、彼女は多くの新人賞を受けましたけど、その前で。直感的に仕事をしたいなと思いましたね。何の印象もない素の状態で出会えたのが良かったのかもしれません。

――かなり監督の演出が入っているのでしょうか。

 ありがたいことに3人はインタビューで、「すべて監督の演出のうえでやってます」と言ってくれてるんですけれど、そうでもなくて。僕はアメリカのラブコメ映画なんかで、女優さんたちがリラックスして力強く演じているのを見るのが好きなんです。だから、今回は役者がどれだけのびのびと大胆にリラックスしてふるまえるかというのが重要で、具体的な言葉で演出するというより、場の空気とか雰囲気とかを一緒に遊びながら作っていくような演出でした。

 「空気」というのは今回の大きなテーマで、原作にある「僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」というフレーズが好きなんですが、そんな空気を五感で感じながら、僕自身が4人目の登場人物になったように作っていきましたね。函館の駅前のビジネスホテルに、キャストとスタッフがみんな泊まって合宿みたいな形の撮影で。それも空気づくりに影響しているかもしれません。

――宣伝写真にも大きく使われているクラブのシーンが印象的です。音楽が流れるなか、酒を飲みながら3人が戯れ、佐知子が延々と踊り出す。

 流れている音楽といい、石橋さんのダンスといい、ずっとカメラを回し続けたいような、撮影が終わってほしくないような時間でしたね。いままで見た映像作品のなかで、僕自身が納得のいくようなクラブの映像って、あまり見たことがなかったんですが、それを撮れたという実感はあります。

――原作との一番大きな違いはラストシーンです。ネタばらしになるので、はっきりとは言えませんが……。

 原作のラストに感じたのは、青春が衝撃的に終わる、ある種のとりかえしのつかなさです。そこは変えずに、どうするのか、原作はある意味、「僕」自身とは違う力によって終わりを迎えるのですが、「僕」自らが終わらせるようにしたかった。かなりいろんなバージョンを考えて、結局、今回のラストに落ち着きましたね。

 映画でつらさとか不幸を描くことは、実はそんなに難しいことではないと思っているんです。むしろ幸せを撮ることは難しいし、意義がある。この街にはこういう問題があるとつきつける映画ももちろん大切だけど、この街ではこんな楽しみ方を見つける人がいるんだよと見せたい。この映画で、僕らはそういうことを実践したかった。実際、そうなっているかどうかは、見て戴いてだと思うんですが……。

――今回、お話をうかがっていても、小説を深く読み込んでいることがわかります。ふだんから読書はお好きなんですか。

 好きですね。どんなジャンルでも読みますが、なぜか日記が好きなんですよ。最近でいえば、『読書の日記』(NUMABOOKS)。東京・初台にあるブックカフェ「フヅクエ」の店主・阿久津隆さんが、あれこれと本を読んでいる様子を書いた分厚い本ですが、これが面白い。古い作品だと、『富士日記』(武田百合子)とか『わたしの渡世日記』(高峰秀子)とかも好きですね。映画に出てくる本棚のなかには、いくつか僕が持って行った本があるんですけど、その一つも最近亡くなったラッパー・ECDの日記なんです。