沖縄県知事選は、翁長雄志(たけし)前知事を継ぐ、玉城デニー候補の圧勝となった。
この選挙をわたしは、1956年の那覇市長選と重ね合わせて見つめた。50年代、米軍は基地建設のために「銃剣とブルドーザー」で、土地取り上げを強行し、それにたいして島ぐるみ闘争が起きた。選挙は、軍用地料をめぐり、闘争に亀裂が生じはじめていたなかで行われた。
だが有権者は、米軍の弾圧による投獄から出所した沖縄人民党の瀬長亀次郎を選んだ。瀬長は「亀さん」「カメジロー」と呼ばれ、抵抗の象徴であった。
比類なき弁舌家の瀬長は、浩瀚(こうかん)な日記も残した。『不屈 瀬長亀次郎日記』の第2部「那覇市長」はハイライトをなす。米軍は、瀬長を追い出すべく水道の供給を止め、市の預金を凍結するなどして市政を妨害したが、市民は自発的な納税で対抗した。「体内にたくわえられた抵抗原が躍動を開始しつつある」と、瀬長は書く。民意を顧みない50年代が再現されつつあるいま、「苦しみを分け合って腕を組む」ということばは胸を打つ。
瀬長は、米軍との闘いに当たって「本土」へ連帯を求め、復帰運動にのめりこんでゆく。そこに、日本政府、また日本国民は、沖縄の人びとの復帰にかけた思いを受けとめただろうか、という問いが浮上する。
魂の飢餓感訴え
それを鋭く衝(つ)いたのが、大田昌秀『醜い日本人 日本の沖縄意識』(原著は69年刊)である。ジャーナリズムを専攻する研究者だった彼はいう。「日本人は醜い――沖縄に関して、私はこう断言することができる」
68年、板付(いたづけ)基地(現福岡空港)の米軍機が九州大学に墜落した。日本政府の対応は、いち早く基地の移転を米側に了承させるなど「信じられないほど機敏」で、沖縄の代表が「危険な実情を陳述し」「抗議したら、『出てゆけ』呼ばわりされた事実」との対蹠性(たいしょせい)が甦(よみがえ)った。「沖縄の人びとは、もはや『日本の防衛のため』とか『極東の平和のため』にといった大義名分で一方的に犠牲を強いられることに真っ向から拒否している」
大田は、90年代、県知事へと押し出される。95年、3人の米兵による少女強姦(ごうかん)事件が発生した。彼は「行政の責任者として一番大事な幼い子どもの、人間としての尊厳を守ることができなかったことについて、心の底からお詫(わ)び申し上げたい」と、痛切なことばを発する。そして時の外相河野洋平に日米地位協定の改定を求める。河野は「議論が走りすぎている」と、切りすてた。
翁長雄志は、そのような沖縄びとの「人間としての尊厳の回復」を、こころの軸として出現した知事であった。官房長官との会談で「沖縄県民には『魂の飢餓感』がある」と迫ったさいには、こういうことばを発する政治家があらわれたのかと、心底驚いた。『戦う民意』でいう。
「『魂の飢餓感』とは、大切な人の命と生活を奪われた上、差別によって尊厳と誇りを傷つけられた人々の心からの叫びです」
衝撃的な無関心
2013年、「オスプレイ撤回・東京要請行動」で銀座をパレードしたさい、暴言を浴びせられた。だがより深く衝撃を受けたのは、騒ぎに「目を向けることもなく、普通に買い物をして素通りしていく人たちの姿」であった。「冷え冷えとした寂しさを覚え」つつも、たじろがない。結びにいう。「私たちの存在をかけてやっていきます」。伴侶・翁長樹子(みきこ)の、政府は「県民をまるで愚弄(ぐろう)するように、民意を押し潰そうとする」という選挙戦での発言と響きあう。
沖縄県民は今回、辺野古への新基地建設拒否の意思が変わらないことを改めて示した。一人ひとりが、みずからを、また日本を、「人間の尊厳」を軸に変えてゆくべきだと促している。=朝日新聞2018年10月13日掲載