「こんな夜更けにバナナかよ」(渡辺一史、文春文庫)
私は現在、さまざまな学習困難を抱えた中高生を対象としたボランティアに関わっているが、ボランティアを始めたのは、自らの技能を高めるという一種の「自己都合」であったことは否定できない。読み終えた今、ここで記された厳しい現実と私の経験は比べようもないが、ボランティアへの認識が一方向的な見方から相互的なものへ変わったことは確かだ。
本書は筋ジストロフィーという全身の筋肉が徐々に衰える難病を患っている鹿野靖明と、鹿野の自立生活を支えるボランティアたちをめぐる実話である。鹿野が歩んできた過去、鹿野と周辺の人の会話、ボランティアの間で交わされた介助ノートなどによって構成されている。私は医療、福祉、ボランティアに関する本を初めて読んだが、注釈の助けで専門的な用語や当時の社会状況を理解することができ、情報的にも役立つ本だった。しかし一方で、本書を感動的と一言で表現することはできないことも事実である。読みながら喜怒哀楽では収まりきれない感情が込み上げてくるからだ。それは鹿野に感情移入しようとしても難しかったこともあるが、そもそも、身体の自由、不自由には大きな体験的隔たりがあるのだから、仕方ないとも言えるだろう。
鹿野は体が動かない。そのため、痒いところをかくことができない。自分のお尻を拭くことができない。寝返りがうてない。鹿野は一人では何もできない。動けないだけではなく、呼吸器を装着しているため、24時間痰の吸引が必要である。当時の状況では一生親の世話になるか、施設で生活するかのどちらかしかない。しかし、鹿野が選んだのはそのどちらでもない自立生活であった。
鹿野は従来の障がい者のイメージをひっくり返すほどの強烈な人間だ。人によっては「フツウ」ではない、ワガママなどと見えるかもしれない。タイトルにもあるバナナは、鹿野のワガママぶりを象徴しているとも言えよう。それもそのはず、鹿野は介助されていることに対して申し訳なさなど示さない。それどころか、自分が苦労して集めたボランティアの人を「帰れ!」などと追い返したりもする。しかし、鹿野がワガママを言うのは強靭な生きる意志があるからである。鹿野のワガママの多さからは、死にたくない、生きたいという執念すら感じられる。私たちは、ワガママなほどの生の意欲に寄り添って、介護、介助、教育などの、ボランティアをさせてもらっているのだという思いに至る。
本書中に引用されている金子郁容の言葉によれば、ボランティアとは「『助ける』ことと『助けられる』ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのかを区別することが重要ではないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである」としている。私のささやかな経験でも、いつの間にか支援する側と支援される側の立場が逆転していることがある。本書によって、ボランティアをしてあげるという優越感は消え、参加させてもらっている、共に学ぶ場を与えてもらっているという考えに変わった。すなわち、ボランティアとは相互扶助の活動なのだ。=「週刊読書人」2018年8月18日掲載
『億男』(川村元気、文春文庫)
どんなに働かない人でも、「お金」に興味がない人はいないだろう。「世の中は金が全てだ」という人もいれば、「お金では買えないものもある」という人もいる。果たして人々は何を求めてお金を稼いで、貯めているのだろうか。本書は「お金と幸せの答え」をテーマに、その答えを探し求め続ける30日間の物語だ。
宝くじで3億円を当て、突如「億男」となった主人公の一男は突然手に入った大金に困惑し「お金と幸せの答え」を求めて大金持ちの親友の九十九のもとを訪ねた。しかしその直後、3億円とともに九十九が失踪。行方を追うため手がかりとなる九十九と同様大金持ちの知人、3人のもとを訪ねるが、そこで「愛人ではなくお金を愛する」「お金を捨てたくてしょうがない」「お金の宗教世界に浸る」といった「大金」によって変貌した生活を知ることになる。さらに、福沢諭吉、チャーリー・チャップリン、サミュエル・スマイルズ、アダム・スミス、ショーペンハウア―など、数々の偉人たちの言葉にも導かれながら「お金」の正体を掴んでいく。
本書では、例えば、「貴賤上下が生まれる訳」、「2種類あるお金」や「「賭けと信用」の関係」など普段扱う「お金」をいつもと違う方向から捉えているため、知らなかった新しい「お金」に出会える。当たり前のように稼いで貯めて欲しいものを手に入れる「お金」は、単なる「交換手段」に過ぎないが、しかし、「お金」がたくさん「ある」と気持ちに余裕が生まれ、反対に「ない」と不安に駆られるといった人間の感情・心理面にも影響している。それほど「お金」が我々に与える影響は大きい。1万円札は実質20円程度で刷られているが、1万円の価値を持つ。これは、人々の「信用」に基づいて成り立っているからだ。みなが1万円分の価値があるとしてみなしているから1万円札になる。「お金」と「信用」は表裏一体とも言える。グレーなイメージを持つ「お金」だが、ここではとてもシンプルで純粋に表されているため、本質を捉えながら読み進めることができる。
本書の著者である川村元気氏は「君の名は。」など、かつてリピーターも続出した大人気の映画作品の創作に関わっており、本書も映画のようなきわめて細かく独特な場面構成によって「お金の世界」が描かれている。登場人物の個性あふれるしぐさや内面・感情、出てくる場面の景色や雰囲気はあらゆる表現で描き出され、現実ではそうそう目にすることもない大量の札束なども、はっきりイメージすることができておもしろい。読みながら、まるで映画を見ているような感覚を味わえる楽しさが本書にはある。
億なんて大金、私には無関係だと思いつつも、なぜ「億男」になれたのかとても気になり、最近大学で「貨幣信用論」を学んでいることもあって、お金への興味から本書を購読したが、これほど「お金」と正面から向き合ったのは初めてである。
「お金と幸せの答え」は何なのか、早く答えを知りたいと、急ぎ足になってはいけない。生々しいお金の世界に導かれ、どっぷり浸かって自分も答えを求めてじっくり考える。一度きりの人生なのだから楽しく充実した時間を増やしたい。生きていく上で欠かせないお金と「幸せ」のつながりを考える良い機会になるのではないか。小説の妙味を超えた奥深さがぎっしり詰まった作品である。=「週刊読書人」2018年8月4日掲載
『娼年』(石田衣良、集英社文庫)
この物語の大筋は簡単だ。主人公のリョウが娼夫として秘密のクラブで働く一夏の物語、そんな感じである。実際はもっと重くセクシャルだがそれを全く感じさせない、サラサラとしながらも心に何かを残していく、とても綺麗な恋愛譚だ。
リョウは大学生でありながら、他の学生と同じようにきちんと単位を取って就活に勤しむのを嫌っている。そういうのがどうにも肌に合わないらしい。倦怠感に包まれながら生きる彼は娼夫という仕事に出会う。お客である女性たちと出会い、それぞれが持つ物語やスタイルとそれに隠された欲望の複雑さに惹かれ、その謎を追うように次々に仕事をこなしていく。
ライバルで懇意の同僚、アズマは痛みだけを快感とする生粋のマゾヒストで、そんな彼曰く、ほかの娼夫たちもどこかいびつなところがあるのだという。そこで、アズマがリョウの魅力を「普通」なところだと答え、困惑するシーンが印象的だ。他人と違うところ、つまり特徴が別段見当たらない「普通」な自分がこんなに人気が出るのかと不思議に思うのだ。
そもそも「普通」とはどういうことなのか? 素朴ながらなかなか答えが出せないこの疑問に思いを巡らせ始めると、これがなかなか興味深い。普通とはなんぞやと問われた時、瞬時に答えられる人はきっと少ないだろう。辞書で引いてみると、「特に変わったところのない、ありふれたものであること」だとか「特別ではない、一般的なこと」だと説明されている。なるほど掴み所がない訳だ。何かと比べないと何が普通なのか定められないものらしい。近年は、「普通」という概念がだいぶ拡張されてきたように感じる。比べるものが変化していけば何が普通なのかも変わっていくのだ。
この作品で重要な「性」について取り上げて考えると、「普通」の変化についてわかりやすいだろう。LGBTsについての話題が真っ先に頭に浮かんだ。性差についての理解はつい最近広がり始めたところであるが、少し前まで性的少数者の肩身は今よりもずっと狭かったはずだ。異性のことを好きになるのが「普通」であり、そこから外れているために「特殊」だと決めつけられていた。人が人を好きになるという根本は何も違わないのに。そんな具合で、普通というのは移ろいやすくもろいものなのだ。
リョウをこの仕事に導いた女性は、「人間は探しているものしか見つけない」と言った。私の心に残った〈「普通」の不思議〉は、この本を通して見つけた新たな視点なのだ。『娼年』は、きっと心に何か輝くものを残していくだろう。=「週刊読書人」2018年2月17日掲載