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一度だけ行った店 柴崎友香

 散歩でときどき通る道の途中に、小料理屋があった。人の少ない路地にぽつんとあって、一度だけ入ったことがある。七十歳くらいと見えるご夫婦が営んでいた。二人ともよくしゃべる人だった。知り合いが朝に採って届けてくれたというふきのとうを、天ぷらにしてくれた。店の奥でついているテレビに若い俳優がゲストで出ていて、それを見ながらおかみさんが「わたしはやっぱりマツケンがいいわあ」と言った。松平健かと思ったら、松山ケンイチで、おかみさんは「デスノート」のエル役を観(み)て以来大ファンなのだと、あれこれおすすめを教えてくれた。
 また行こうと思っていたがなかなか機会がなく、閉店の張(は)り紙が出たのは去年のことだった。四十年近くそこで営業していたことが書いてあった。お客さんもなじみの人がほとんどでマイペースでやっていたようだし、引退してゆっくりされるのかな、と賑(にぎ)やかだったご夫婦の姿を思い浮かべた。
 先日久しぶりに前を通ったら、シャッターの下りた店先に「ご自由にお持ちください」と食器や雑貨が置いてあった。店で使っていただろう食器がほとんどだったが、小さな飾り棚やスーツケースもあった。二階がおうちのようだったから、引っ越されるのかな、と思いつつも、出かけるところだったのでそのまま離れた。
 帰りに通ってみると、置いてあったものはほとんどなくなって、食器が少しだけ残っていた。小皿を二枚、持って帰った。ごくありふれた感じの、かわいらしい梅の花が描かれた小皿。家に帰って洗って片付けると、元からあった小皿と大きさがぴったりで、前からあったかのように収まった。
 それから、ごく普通に使っている。だけど少し違和感がある。自分が選んだのではない柄がなぜここにあるのか、しっくりこない。あのときほかに並べられていたものたちも、誰かの家でちょっと「よそもの」でいつづけるだろうか。そしてそのたびに、あのお店のことを思い出させるだろうか。=朝日新聞2018年12月10日掲載