松谷みよ子と浜田広介
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
わりと母が絵本をたくさん買ってくれたのですけれど、物心ついてから憶えているのはマリー・ホール・エッツの『わたしとあそんで』。黄色い表紙の可愛い絵本でした。女の子が動物と遊びたくて、追いかけまわすとみんな逃げちゃうけれど、おとなしく座っていると戻ってくるというお話です。他は母に読んでもらったバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』、ハンス・フィッシャーの『こねこのぴっち』もすごく好きでした。これはキャラクターグッズにもなっている絵本ですよね。
日本の絵本だと『ぐりとぐら』のシリーズと、馬場のぼるさんの「11ぴきのねこ」のシリーズ、かこさとしさんの「だるまちゃん」シリーズ。子ども心に滝平二郎さんの切り絵の挿絵が印象的だったのが、『モチモチの木』と『花さき山』。このあたりが幼稚園の頃だったのではないかと思います。
――そういえば古内さんとは、前に松谷みよ子さんの『ふうちゃんのおたんじょうび』の話をしたことがありましたよね。
あ、そうですそうです。どろんこケーキを作る話ですよね(笑)。小学校に入ってからは松谷みよ子さん一色でした。小学校の図書館に「松谷みよ子全集」があったんです。黄色い大きな本で、函入りで。それが順番に小学校の低学年から高学年向けになっていて、ずらーっと並んでいました。それで低学年の時に『ふうちゃんのおたんじょうび』を読みました。「モモちゃん」シリーズも大好きでしたね。動物やおいしい食べ物が出てきて、可愛らしいところが好きでした。
他にものすごくハマったのが、浜田広介。「ひろすけ童話」ですよね。これも全集があって「1年生」「2年生」と学年ごとに編集されていたので、簡単に読めるものから読んでいました。『泣いた赤おに』が有名ですけれど、私が好きだったのは『トカゲの星』。これはトカゲの兄弟が出てきて、子猫が弟を攻撃した時にお兄さんがかばってしっぽが切れちゃうんですが、そのしっぽが主人公なんです。子猫も殺すつもりじゃなくて、ちょっと触ったら切れちゃったので、しっぽに「どうしてそんなに動くの」と訊くと、すごく面白い表現なんですが、「元のしりおになりたいよ」と答える。「尻尾」ですね。子猫がどこかに行った後は蟻がきてまた話すんですけれど、蟻もどこかに行ってしまう。どんどん寒くなってしっぽが動かなくなってきた時に、天の神様が「庭で光っているものがある。あの光は地上に置いておけない」と言って、天使に取らせに行く。それで星になるというところで普通だったら話が終わるけれど続きがあって、春になってとかげのお兄さんにも新しいしっぽが生えてくる。昔切られたしっぽは星になっているわけですけれど、「いったい切られたしりおの星の光にはいつ気づくのでありましょう。いつ気づくのでありましょう」と、最後を2回繰り返すんですよ。それが子ども心にすごく切なくて。めでたしめでたしではなく悲しみみたいなものが残りますよね、それが印象的でした。
「ひろすけ童話」はやっぱりリズムが好きでしたね。まるで歌みたい。松谷さんの絵本は主人公は6~7歳の女の子が出てくるわりと現実に近いお話ですが、浜田さんは『泣いた赤おに』や『竜の目の涙』もそうですけれど、おとぎ話。そのなかでも私は、リズムが歌みたいな『トカゲの星』が好きだったんです。
――「この文章が好き」という自覚があったんですね。
ありました。松谷さんの本の文章も結構暗記しています。いま読み返すと、「よくこんなに憶えているな」と思うくらい、憶えているので、相当読み込んでいたんでしょうね。というのも、私は小学校2年生までものすごく身体が弱かったんです。肺に影が映るけれど原因が分からなくて、血液検査をすると「血沈」といわれて。夜になると毎晩熱が出ていて、毎週父と一緒に新宿の大きな病院で検査していました。今は親に「あなたがこんなに生きられるとは思わなかったわ」と言われるんですけれど。
それで、昼間も校庭で遊べず、体育もほとんど見学だったんです。そうするとほぼ仲間外れ状態で、友達もできないので休みの時間は図書室で本を読む以外、することがありませんでした。でもそれが楽しかったので、私は気にしていませんでした。でも小学校2年生の時、先生がそれを気にしちゃって。算数の先生だったんですけれど、私、算数ができなかったので、先生からしてみたら勉強はできないわ体育はできないわ友達はいないわ、という生徒だったんでしょうね。で、親に言っちゃったんです。そしたら親がすごくびっくりして、「あなたお友達がいなくて一人で図書室で本を読んでいるの」って、すごい剣幕で怒られました。私はその時、トラウマになるくらい、「本を読んじゃいけないのかな」と思いました。親は心配して言ってくれたんでしょうけれど、私にしてみれば友達がいないことは苦ではなく、図書室に行けば「バーバパパ」のシリーズもたくさんあるし読み切るのに時間が足りないくらいで楽しかったのに。
で、たままた小学校3年生から週2回水泳を始めたら、なぜか病気が治っちゃったんです。デビュー作の『銀色のマーメイド』にも書いていますが、水にあおむけに浮かぶ状態から2か月くらいでバタフライまで泳げるようになりました。毎晩お布団の上で型をやったりしているうちに、身体が丈夫になって、肺の影もなくなって、熱も出なくなって普通に遊べるようになりました。友達もできたし、体育もできるようになって。そんな頃、3年生の時に担任が国語の先生になったんです。そうしたら、今度は本を読むことを悪く言われなくなりました。でもその時に、私は子どもながら、「え、そんなものなの」って思いました。これはおそらく、私が小説を書く根底にあるものだと思うんですけれども。
――健康になっても、本は読み続けたんですね。
友達と遊びながらもずっと本は読み続けていて、それこそ松谷さんの全集も高学年向けのものをよく読みました。好きだったのは「戦争シリーズ」で、児童書とは思えないくらい残酷なものが多いんですね。特に好きだったのは「夜」と「花びら」。
「花びら」はすごい小説で、はっきりは書いていないんですけれど闇市の帰りの満員電車に女の人が乗っている。どこかで赤ちゃんがひいひい泣いていて、みんな疲れているから、迷惑だなと思っている。で、ぎゅうぎゅうやっている間に赤ちゃんが泣かなくなるんですよ。「泣き止んだ、よかった」と思っていると、電車から出た時にお母さんが赤ちゃんをゆすっている。どうしたのかと思って主人公の女の人が行くと、実は赤ちゃんは押し殺されて窒息死していたんです。それで主人公は「私も一緒になってこの赤ちゃんを殺したんだ」と。それ以来、人間が人間に見えなくなってしまうんですね。それで医者に行ったら「今の世の中、人間が人間に見えなくなるのは異常じゃないですよ」と言われ、お薬をもらう。それがドロップなんですよ。そのドロップを見て、主人公は戦争に行ったきりの幼馴染のことを思い出すんです。それで最後は、その幼馴染も戦地で行方不明になってしまったことが分かり、主人公が「生きている」「生きている」と涙を流しながら野菊の花びらをむしって川に流すというところで終わるんです。
――うわあ...それが小学生向けの本に入っているんですか。
そうなんです。これはもう図書室で読んでボロボロ泣いちゃって。
「夜」というのもすごい話で、戦後すぐ、15~6歳の少女が学校に通わないで工場みたいなところで働いている。たぶんお父さんは戦争でいなくなって、お母さんは病気でその子が働き頭なんですけれど、お給料が出た時、どうしてもかき氷が食べたくて、男の子を誘ってかき氷屋に入って2人で食べるんですよ。でもお店を出たところ誰かにぶつかられて、給料袋をまるごと取られてしまう。その時、その子は「ごはん」ってつぶやく。そのお給料が家族の食費だったんでしょうね。それで、自分がかき氷を食べたからだって、すごく後悔するんです。どうしてもかき氷を食べたくて食べたくて我慢してたのに。後悔しながら男の子と帰るというだけの話なんですけれど、それを童話として書く。それって、子どもを信じてなきゃ書けないと思うんですよ。子ども向けのものだからといってまるで手を抜いていない、その徹底さに打たれましたし、信頼されている感じがしました。
その頃、小学校3、4年生になって身体が丈夫になって、国語の先生が担任になって私が作文がうまいってことを言ったら、それまで仲間外れだったのが、学級委員にもなったんですよ。算数の成績は相変わらず悪かったんですけれど、担任が算数の先生と国語の先生ではこんなに評価が違う。本を読むこともいいことみたいに言われ、作文も上手だと褒められて、私にすり寄ってくるような子も出てくる。単に嬉しい部分もありつつ、大人が考える基準をクリアしていないと認められないって、どういうことなのと思いました。たとえば、もしも「本を読む」ということが本当に美徳なのだとしたら、私が身体が弱くて仲間外れになっていても認められるべきですよね。なのに1、2年生の頃は「頭も悪くて体育もできなくて友達もいなくて本しか読んでない」と言われ、3年生になるといきなり学級委員なんて。身体は弱いままだったら本を読むこと自体も認められないままだったのかな、と考えるようになりました。実際、算数の先生は算数ができる子を、国語の先生は国語ができる子を贔屓していたと思いますね。先生の評価で生徒の評価が変わってしまうという。小学校って残酷だなと思う。
そうしたなかで、松谷さんの本って嘘がないなと思って。子どものものだからといって何か「こうしろああしろ」と言わないし、ちゃんと残酷なことも書いてあって。松谷さんにはまだ畏敬の念がありますね。なにか、助けてもらったという感覚があります。
アニメを自分で小説化
――そういえば絵本以降は、海外の作品はあまり接することはなかったのですか。
低学年の頃はピエール・プロブストの「カロリーヌ」のシリーズが好きでしたね。『カロリーヌつきへいく』とか『カロリーヌほっきょくへいく』とか。絵もおしゃれだし、猫とか犬とかと一緒に月や北極やいろんな国に行って冒険するのが楽しかったです。他には『若草物語』や『小公女』、『秘密の花園』、『少女パレアナ』とか『スウ姉さん』『アンネの日記』とか。みんなが読むようなものはだいたい好きでした。ただ、自分の土台となっているのは松谷みよ子さんとひろすけ童話かな。
――文章を書くことは好きでしたか。
そうですね。高学年になると今度は読書感想文コンクールとかがあって、私は入選するくらいなんですけれど、校内では1、2人くらいしかいないので、今度は文章を書くことがよく思われるようになりました。それで、自分でも書いていましたね。椋鳩十さんの自然シリーズが好きでよく読んでいたこともあって、動物ものを書きました。子どもなりにメジロの世界を結構調べて、メジロの冒険の話を書きました。なぜか松谷さんの方向に行かずに、椋鳩十さんの方に行きましたね(笑)。椋さんの鷲の生態をそのまま物語にした『大空に生きる』とか、そういうものに感化されたんでしょうね。
そういえば3年生の時に担任の先生に「物語を書いてみなさい」と言われて、探検記みたいなものを書きました。クラスの友達を主人公にして書いて、お昼の時間にみんなの前でちょっとだけ読んだりするんですよ。そうするとみんな聞いてくれて「面白い」と言ってくれるのが楽しくて。でも5年生になると違う先生になったので、結局完結しませんでした(笑)。
――中学時代になるといかがですか。
今度は漫画やアニメにハマり出すんですね。吉田秋生さんの『カリフォルニア物語』がすごく好きでした。小学校から読んでいた『ガラスの仮面』も。私が中学生の頃は少女漫画の黄金期だったんです。『日出処の天子』とか『エロイカより愛をこめて』とかがリアルタイムで出てきて、めちゃくちゃ面白かった。後追いだったかもしれないけれど『ベルサイユのばら』とか『オルフェウスの窓』とかも読みましたね。それと、『マカロニほうれん荘』がすごく好きで、それでなんと、自分でもギャグ漫画を描き始めました。
――おお、どんな登場人物で?
もう、本当に馬鹿みたいな話で、鏡の中に入ったら自分と正反対の性格の人がいる話とか、鏡の中に入ったらどこにでも行ける話、とか。何人かで鏡の向こうに一緒に行く時に、行先は決めていたのに一人だけ「女湯に行きたい」って考えていて、その思いが強すぎて女湯に行ってしまって「バカヤロー!」みたいな(笑)。そういう漫画を描いて、あまり本を読まなくなっていましたね。
それと、中1の時に「機動戦士ガンダム」が始まったんです。もう、ドはまりですよ。あまりに好きすぎてこれを漫画に描こうと思ったんだけれど、画力がなかった。私、実は絵が下手だったんです。それで、絵は無理だから、ノベライズを書きました。二次創作はそのキャラクターを使って違う話を書きますが、私がやったのはアニメをそのまま小説にしたんです。馬鹿なんじゃないかと思いますけれど(笑)。で、途中でやめました。というのも、大変だったというのもあるんですけれど、アニメだと意外と省略しているので途中でシャアの気持ちが分からなくなったんです。
アムロの気持ちはよく分かる。でもシャアは何を考えているのかなと思うようになっちゃって。最後のほう、セイラがふたりを止めに行くところまでは書いたんです。ところがですね、シャアがいきなり「ザビ家の人間はやはり許せぬと分かった」とか言いだすけれど、なんで分かったのかが分からない。それを今「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」でやっていますけれど。
――部活は何かやっていたのですか。
一応、水泳部の大会に出たりはしていたけれど、助っ人だったと思います。成績がよいわけではないけれど、あの頃はバタフライを泳げる子があまりいなかったので。スイミングクラブは続けていて、その夏合宿とかがあって忙しかったので、部活には入る時間はなかったと思います。
映画の勉強を始める
――さて、高校時代は。
高校に入ると小説に戻ってきます。その理由は、自分は絵が下手だということに気づいたから。ギャグ漫画でなくストーリー漫画を描こうと思うと画力がついていかない。そうすると小説に戻るしかないということで、この頃にいちばんハマったのはサリンジャー。『ナイン・ストーリーズ』『ライ麦畑でつかまえて』『フラニーとゾーイー』...。『ナイン・ストーリーズ』は本当にショックでしたね。最初にお兄さんが自殺してしまうところから始まるわけですけれど。あと、子どもが自分のお父さんのことを「ユダ公」と言われて、親が「どんな意味か知ってるの」と訊いたら、「ユダコっていうのはね、空に上げるタコの一種だよ」って答える。意味が分かってないにも関わらず、ニュアンスは切実に感じ取っているというのが、すごく面白い小説だなと思いましたね。
それと、高校時代はちょっと格好つけてシリアスなものが書きたいと思って、倉橋由美子さんとかに傾倒しました。高校では文芸愛好会に入りました。水泳部に入ろうと思ったら、学校にプールがなかったんです(笑)。そこで、小説好きな子たちと一緒に小説を書き始めて、倉橋さんの影響で人の名前を「M」とか「F」とかイニシャルにしたりして。ただ、共産党の話も、意味も分からず読んでいたと思いますよ。『聖少女』とかも。あとは大江健三郎さんといった、純文学っぽいものを格好つけて、本当に分かっているのか分からないけれど、読んでいました。
――古内さんは作家になる前に映画のお仕事をされていましたけれど、その頃から映画はご覧になっていませんでしたか。
うちは父が映画がすごく好きで、よく連れていってくれたんです。名画座で「禁じられた遊び」とか、「第三の男」とか、ペペ・ル・モコの「望郷」とか。
――ああ、ジャン・ギャバン演じる主役の名前がペペ・ル・モコ。
あのへんのものを見て映画の学校に行きたいと思うようになって。調べていたら日大芸術学部に映画学科というのがある。でも親に言ったら学費が高すぎるからダメだって言われたんですよね。でもよく調べたら、監督コースや撮影・録音コースは学費が高いんですが、理論・評論コースは文学部と同じくらいだったんです。「ここならいいよ」と言われ、そこに入り、映画理論を学びました。
――理論って、モンタージュ論とかですか?
そうですそうです。当時、登川直樹先生というすごく有名な教授がいらして、理論・評論の教授だったんです。すごく授業が面白かった。モンタージュ論からカメラ万年筆論とか、ずっと習っていくわけですね。だからこの時期になると、映画に影響された本を読むことが増えました。
私、池袋の文芸坐でアルバイトしていたので、年間名作映画を200本くらい観ていたんですね。モギリのアルバイトが終わったら、ただで観てよかったんです。みんなすごく優しくていい人ばかりで、大好きでした。
そこで大島渚監督とか鈴木清順監督とか、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画とかを夢中になって観ました。タルコフスキーとかソクーロフとか。ハリウッドのものも、アメリカン・ニューシネマとかヌーヴェル・ヴァーグも。そのなかで映画化されたものの原作も読んでいたんですけれど、好きだったのは、ガルシア=マルケスの『エレンディラ』、アーヴィングの『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』、あとは「ブレードランナー」の原作となったフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。『高い城の男』も好きで、それで、なんと大学の有志で『ヴァリス』を自主製作したんです。あんな難解なものを(笑)。監督コースの先輩が「『ヴァリス』やるぞー」と言って、8ミリで。私は手伝っただけですが、一応役者で出ていました。最後は殺されちゃう役(笑)。
――それはどこかに残っているのでしょうか。
いや、私も観た憶えがないので、完成しなかったのかもしれません。ラッシュまではいったのかもしれないけれど。
――学科を超えて仲の良い人たちがいたんですね。
そうですね。映画学科の他に文芸学科の人たちも仲良くて、本も「今これが面白いよ」と教えてもらって読むことが多かったと思います。大学のそばに下宿している面倒見のいい先輩がいて、その人は自分の下宿を開放していたんですね。そこにいくと先輩はいなくても誰かが必ずいて、そこでいろいろと教えてもらうことが多かったです。ゴダールがいい悪いって論争がおきて、あまりにもゴダールを擁護した人のあだ名が「ゴダール」になったりして、面白かったですね(笑)。
――映画とは関係なく読んだものってありましたか。
村上春樹さんが出てきたのがこの頃で、当然読みましたね。私が大学生時代に読んでびっくりしたのは、村上春樹さんと、『悪童日記』のアゴタ・クリストフです。『悪童日記』は『ふたりの証拠』『第三の嘘』と合わせて三部作ですが、やはり『悪童日記』は大ショックでしたね。何が好きだったかというと、登場人物が自分の倫理で動いているところ。たぶん私の根底にある、誰かが決めた倫理ではなく自分の決めた倫理で動く、ということを主人公の双子が実行していて、それが気持ちよかったんです。おばあちゃんが性格最悪で、双子が食事するのを止めている時に目の前で鳥を丸ごと焼いて食べたりしますけれど、ナチスがユダヤ人を行進させている時に、わざと林檎を彼らのほうに転がして食べさせるんですよね。それでナチスに殴られる。おばあちゃんが怪我して帰ってきた時に、双子ははじめておばあちゃんの手をとって一晩中看病する。そういうところもすごくよかった。あと、「兎っこ」って出てくるじゃないですか。
――はい、近所に住む女の子ですよね。
あの兎っこも淫乱で最悪ですが、双子は「眼の見えないお母さんの面倒を見ていてお前はいい子だ」と言ってその子を守る。みんなから犬畜生と言われている子を、双子は双子の倫理で守るんですよね。そういう、筋が通っているところが好きでした。その後に出てきた『ふたりの証拠』と『第三の嘘』も小説としてすごく面白いんですけれど、そういうところがなくなっているので、やっぱり『悪童日記』がいちばん好きですね。
――村上春樹さんの作品では何が好きでしたか。
私は『羊をめぐる冒険』かな。『風の歌を聴け』とか『1973年のピンボール』も読みましたけれど、『羊をめぐる冒険』から「この人はすごくエンターテインメントを書こうとしている」と感じて......と私が言うのも不遜なんですけれども、物語がバーンと広がった感じがありました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も大好きですね。短篇も、気味悪い「納屋を焼く」とか。阪神大震災のことを書いた『神の子どもたちはみな踊る』も。エッセイでは、『走ることについて語るときに僕の語ること』には憧れましたね。ストイックで、午前中に走って午後に執筆して、夜は音楽を聴きながらご飯を食べて、という生活が。
中国に留学、帰国後は映画会社へ
――やはり卒業後は映画の方面を志望されていたと思うのですが、どういう方面を考えていたのですか。
そうですね。学校では映画史を習うわけですけれど、みんな過去のことなんですね。アメリカン・ニューシネマもイタリアン・ネオレアリズモも、ヌーヴェルヴァーグも、松竹ヌーヴェルヴァーグも。リアルタイムで観ることはなかったんです。ところが、文芸坐でアルバイトをしている時についに中国の第五世代がやってくるんです。チャイニーズ・ヌーヴェルヴァーグ。チェン・カイコーやチャン・イーモウが現れて、私は大ショックを受けました。それまでは文化大革命があって、前進、前進、前進みたいな共産党っぽい映画が多かったんですけれど、そこにいきなりチャイニーズ・ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる「新潮派」が現れた。「黄色い大地」とか「大閲兵」とか、もう今までの中国映画とガラッと違うんですよ。「あ、中国映画、今だ」と思いました。それでどうしても中国映画を勉強したくなったのですが、当時中国映画について書かれていたのは佐藤忠男さんくらいしかいなかった。じゃあ中国に行くしかないだろうと思ったら、登川直樹先生が行かせてくれたんです。「じゃあ行きなさい、単位のことは心配しなくていいよ」と。私、わりとやり始めるとそれだけしか見えなくなるので、それで半年くらい日本で中国語を勉強して、北京と上海に留学して、撮影所に取材に行くくらい頑張って、卒論は中国新潮派で書きました。
その頃、西安映画撮影所といって、新潮派の撮影をしている場所が西安にあったんですね。チャン・イーモウが「赤いコーリャン」を撮ったり、チェン・カイコーが「大閲兵」や「黄色い大地」を撮ったりしていた場所です。そこにも一人で取材に行きました。そうするとね、やっぱり、会ってくれるんです。製作所の所長だった呉天明さんとかも、日本の学生が中国語を習って訪ねてきてくれたといって、スタジオセットとかも全部見せてくれて、若手の監督を紹介してくれて。すごくいい時代でした。ところがそれから1年後に天安門事件が起きちゃうんです。
――ああ、1989年ですね。
そうです。それで一気に映画が失速するんですよ。一回新潮派というのは終わってしまう。だから、すごい過渡期に留学したなと思っていて。このことは後々小説に書いていくことになると思います。当時の中国というのは今からは考えられない、民主化の百花繚乱な感じがありました。映画だけでなく芸術が新しくなって、文学でもそれこそ莫言とかが出てきた時代ですね。
――ノーベル文学賞を獲った、『赤い高粱(コーリャン)』の原作者ですね。
他にも田壮壮とかが出てきていたのに。それが1年でぺしゃんとなってしまった。それを如実に見てしまったので、いずれ小説のテーマになっていくと思います。
それで、中国語がある程度話せるようになったんですが、帰国したのが4年生の夏で。本当だったらもう就職活動は間に合わなかったんですが、某老舗の映画会社がまだ募集をしていて、ギリギリ間に合いました。中国語が喋れるというのを売りに、なんとか新卒入社することができました。当時その会社は中国との合作とかもやっていたので。それで、入社してすぐに、キン・フー映画祭という、中国の黒澤と呼ばれている胡金銓(キン・フー)監督の映画祭があって、スタッフとして参加しました。
その頃は、本当に現場でバリバリやれるくらい話せるかといると、今思えば話せてなかったと思うんです。そのキン・フー監督も、中国や台湾や香港で映画は撮っているんですけれども、普段はロサンゼルスに住んでいる方で英語がペラペラだったので本当は英語の通訳でよかったんですよ。でも中国語が懐かしかったんでしょうね。私のつたない中国語を非常に愛してくれたと思います。もう亡くなられたんですけれど、映画会社勤務時代は何回もお仕事をご一緒させてもらいました。私にとっては登川先生と同じくらい、師です。
「侠女」という映画がいちばん有名で、カンヌ国際映画祭高等技術委員会グランプリを獲っています。いわゆる華麗な、踊るようなカンフーアクションをはじめてハリウッドに持っていって、剣劇ブームの元を作った人でもある。だから、アン・リーとかの師匠に当たる人ですね。心臓のバイパス手術の失敗で亡くなってしまったので、本当はもっと長く生きられたんです。亡くなる直前まで仕事させていただいたこともあり、台湾で作られたキン・フー監督の回顧映画に、私、出演しています(笑)。キン・フー映画祭のプロデューサーと、宇田川幸洋さんという映画評論家の方と、3人で。これは「時不我与 MEMORY OF KING HU」というタイトルでDVDが出ています。キン・フー監督は多才な方でエッセイもいっぱい書かれているんですが、その中にも私は結構出てきています。いずれはその翻訳もやりたいですね。絵も上手で、絵コンテなんかも本当に画家のよう。それもぜひ出したいです。
――映画会社勤務時代、読書はされていましたか。
それが暗黒時代に入りましてですね。仕事関係ではない本をあまり読まなくなっていました。読むのはいわゆる「映画化するから読んで」と言われたベストセラーばかり。仕事が大変だったので趣味で読むとしても軽く読めるものが増えて、それこそ森瑤子さんなんかは読みやすいし面白かったですね。ほかには山田詠美さんや川上弘美さん。それと、映画化のために読んだのだと思いますが、高村薫さんがすごく面白かった。他の会社に取られましたけれど(笑)。
――あ、『マークスの山』ですね。
そうですそうです。他は中国語のものを読んでいました。『赤い高粱』とか『芙蓉鎮』とか、莫言とか。この頃、映画で福井晴敏さんや岩井志麻子さんとお仕事させていただいていますね、福井さんの『戦国自衛隊1549』や岩井さんの『ぼっけえ、きょうてえ』のDVD化の宣伝マンとして。他にも綺羅星のようなベストセラー作家さんにもお会いして、パンフレットやDVDの特典のためのコメントをお願いしたりしていました。当時は自分が作家になるなんて思っていなかったですから、映画会社の人間としてこういう人たちと付き合っていくんだろうと思っていました。
――じゃあ、出版社の人たちとも交流があったんですね。
ああ、角川書店さんとか文藝春秋さんとか、宣伝マンとして会いに行っていました。「帯にこの写真を使ってください」とか(笑)。
名作を読みふけった時期
――では、どうして小説を書きたいと思われたのでしょうか。
子どもの頃から本が好きで、もともと物語も書いていたので「作家になりたい」という気持ちはぼんやりあったと思います。高校生の時に100枚くらいの小説を書いて投稿もしましたし。それは文藝賞に応募したんですけれど、1次選考を通過したんです。それで満足しちゃったんですよ。もういいや、って。その時に受賞されたのが山田詠美さんの『ベッドタイムアイズ』でした。
それ以上やろうという気持ちにはならなくて、その後は全然書いていませんでしたが、ぼんやりと「小説書きたいな」という気持ちがありました。でも映画の仕事に夢中になって。「私は一生こうして会社の名刺を持って生きていくんだな」と思っていたんですね。
でも、入社した映画会社が、社長が亡くなって大手に営業譲渡されたんです。それまでの老舗映画会社は中小企業で、ブラックでしたけれど楽しかったんです。なんでもやれた。英語もできないのにいきなりカンヌに買い付けに行けって言われたりして、しかも買ってきた映画を宣伝から営業まで何もかも自分でやるんですよ。めちゃくちゃでしたし、だから駄目になったと思うんですけれど、やりがいがあった。プレスシートの映画のストーリーも毎回全部自分で書いていましたから、文章を書く点でも鍛えられていたと思います。
でも大手になったら分業制。全部「外注しちゃえ」みたいな感じで。社員が残業しないように、それが会社としては正しいのだと思いますが、だんだん「ここにいてこの後どうなるのかな」と。このままいくと中間管理職になって、現場の仕事も減っていって、結局売り上げ報告だけしているようになるなというのが見えて、それはあまり面白くないなと思えてきて。37歳くらいになって「また小説書きたいな」という気持ちが浮かんできたんです。
――で、書き始めた?
いえ、書けないです。高校時代に100枚書いて以来、書いてないですから。自分の読書も全然足りてなかった。こんなんで作家になれるわけないじゃんと思って、そこから教科書で読んだことのある人の小説を全部読むことにしました。夏目漱石とか森鴎外、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介、川端康成とかを、どんどん読み始めました。そうしたらめちゃくちゃ面白かった。
『坊っちゃん』もちゃんと読むと、当時読んだ時と印象が違う。映画のイメージにひっぱられていたけれど、「松山の悪口しか書いてないじゃん」と気づくんです(笑)。夏目漱石は『吾輩は猫である』も『草枕』も『三四郎』も面白くて、『こころ』と『それから』はよく分からない、みたいな感じ。そのうち志賀直哉がすごく好きになり、『和解』を読んだ時に、赤ちゃんが亡くなるシーンにあまりにも迫力があって、電車で読みながらワーッと泣けて「ああ、志賀直哉、好き、大好き」って。川端康成も「こんなに文章のうまい人は世の中にいないんじゃないか」と思うんですけれど、書いてあることはもう、『山の音』なんて舅が嫁に欲情している描写に「おいおい」ですよね(笑)。映画だと山村聰さんのすごくいい印象があるのに。でもそんな最悪なことをきれいな文章で書けるってすごいよなと思いました。
あと好きだったのは井伏鱒二。『夜ふけと梅の花』とか、ちょっとユーモアのある『駅前旅館』とか。『黒い雨』になると全然違いますが、それも大好きです。林芙美子さんもすごいと思いながら読みましたね。島崎藤村は『破戒』は読めましたが、『夜明け前』はあまりに長くて挫折しました。太宰治の『もの思う葦』を読んだら、『夜明け前』のことを「そうめんやうどんを何杯も何杯も出すような小説を書きやがって」みたいな感じで書いていて、爆笑しました。太宰もすごく好きでした。
――一気にずいぶん読まれたんですね。
ただ、明治とか大正とか昭和初期の作家は有名で分かるんですけれど、逆に新しい作家が分からないんですよ。大ベストセラーになるような人は分かっても、新しい作家は誰を読んだらいいのか分からない。その時に、「本の雑誌」を読み始めたんです。それで北上次郎さんのお薦めするものを読むようにしました。
なぜかというと、北上さんが他の雑誌で紹介していたオーソン・スコット・カード『消えた少年たち』とか、浅田次郎さんの作品を読んだらすごく面白かったんです。それでこの人の薦めるものは間違いないと思って、北上さんの「めったくた新刊ガイド」を読み始めて、そこで紹介されているものを素直に買っていきました。そうしたら本当に外れがなくて。特に若い新人作家さんの本がみんな面白かった。
――それらを読んでいる頃は、まだ小説は書かれていなかったんですね。
まだ書いていませんでした。でも、42歳になった時についに早期退職の募集が始まったんです。在籍10年以上40歳以上の全員が、いわゆるリストラ勧告されたんですね。もちろん手を挙げなければ辞める必要はないんですけれど、私もその対象者だったんです。ちょうど20年勤務していました。で、「ああ、映画とお別れするのはここだな」って、本当に思って。退職金に上乗せがあるから、それを元手にして本気で小説を書いてみることにしました。その時はじめて、本気で小説を向き合うことにしたんです。
当時、めちゃくちゃ現役で働いていました。DVD制作室というところに移って「CSI:科学捜査班」という非常に売れていた海外テレビシリーズのプロデュースをやっていて、主演男優を来日させてプロモーションしたりしていたんです。だから会社側もまさか私が手を挙げるとは思っていなかったみたいで、すごく驚かれました。でも、いい後輩も育てたので、任せられるなと思ったし。ところが、この時に手を挙げたのは私一人だったという(笑)。
人に指摘された小説の書き方
――へええ。それで、辞めて投稿生活に入ったのですか。
そうですね。2年間やって駄目だったら翻訳の仕事をやろうと。その2年間も繋ぎみたいな感じで、大学の中国語の師匠のところで中国語の文法の編集もやっていました。それで、2009年の春に退職して、2010年11月にポプラ社小説大賞で引っかかったんですよね。
――それが翌年刊行された『快晴フライング』、のちに『銀色のマーメイド』に改題された水泳部の話だったんですね。それまでに他の新人賞にも応募されたのですか。
そうですね、さくらんぼ文学新人賞に応募して最終候補までいったり、太宰治賞に応募して、それは1次までだったかな。まあ、何かしらには引っかかるので、まったく何の見込みもないわけではないんだろうなと思いながら、『銀色のマーメイド』を書いて、実は人に言ったことがないんですけれど、仕事仲間のプロデューサーに読んでもらいました。その人はシナリオチェッカーをやっていたんです。シナリオのチェックして、赤を入れるという、編集さんみたいな仕事ですね。それまでは誰にも見せずに投稿して落ちる、ということを繰り返していたんですけれど、そこではじめて人に読んでもらいました。そうしたら、「これ、本になるよ。だけど、このままじゃならない」って言われて。「君、小説の書き方分かってないでしょう」って。多視点でいろんな子どもたちの内面を書いていたんですが、「これじゃ純文学なんだかエンタメなんだか分からないよ」って。「俺が読むにこれは弱小水泳部に性同一性障害の女の子が秘密兵器としてやってくるという、エンタメだよ」、「だったらエンタメの書き方しなかったら、受からないよ」。そこで「ええー。エンタメと純文ってそんなに違うの」と言ったら「馬鹿じゃないの。エンタメにはエンタメの、純文には純文の書き方ってものがあるんだよ、今までどんな読書をしてきたの」って。
――もともと厳しく言う方なんですか。
すっごく厳しい人でした。それだけはっきり言ってくれると信頼していました。で、「エンタメはどういった見せ方をするの」と訊いたら「まず『神話の法則』を読みな」と言われました。『神話の法則』って、ハリウッドのシナリオの書き方を指南した本なんですね。「スター・ウォーズ」などの物語のパターンを書いている本。ここで危機があって、ここで何か成果があって、でも次に何かあって...というパターンですね。それで、他にもその人に言われた通りにあさのあつこさんの『バッテリー』とかいろいろ読み直して、頭から『銀色のマーメイド』を全部書き直しました。その時にはじめて、エンタメ小説ってこうやって書くんだと学びました。
――その時、そのアドバイスがなかったら、デビューまでにもっと時間がかかっていたかもしれませんね。
そうですね。他にも「映画だってそうでしょう」「この監督ならこういう売り方があるって思うでしょう? 色が分からなかったらパッケージにならないんだよ。小説も風俗小説なのか恋愛小説なのか、エンタメなのか、君はごちゃごちゃになっている」って言われましたね。そうした意見を聞いて、はじめてエンタメに振り切って書いた『銀色のマーメイド』が特別賞を獲ったので、よかったなあって。
その時に「資料を見ながら書く」ということも学びました。それまで落ちていたものは、わりと自分の経験してきたこととか、自分に近いことを書いていたんですね。でも『銀色のマーメイド』は青春小説で、今の中学生はどうなんだろうということや、性同一性障害の人が出てくるので、そのあたりのこともちゃんと調べないと書けなかったんです。なので、資料として本を探して読むということを始めました。次に書いた『十六夜荘ノート』というのは、戦前戦中戦後の話なので、もっと資料を読み込まないと書けない話でしたし、次の『風の向こうへ駆け抜けろ』は競馬の女性ジョッキーの話なので、出版社の編集さんと一緒に取材をするということも始めました。それはそれですごく楽しかったですね。
――デビュー後の生活はいかがですか。
中国語の編集をやっている時は、毎日毎日小説のことだけ考えて生きていけたら楽しいだろうなと思っていましたが、実際そうなるとそこまで楽しいものでもなく(笑)。でも本当に良かったなと思うのは、会社員生活を20年間やったことが力になっていること。何も知らずに20代でデビューしていたら、私はたぶん、書き続けられなかったと思うんですね。取材の仕方にしても、会社員時代に鍛えられたものがあるので、それは会社に育ててもらったなと、感謝の気持ちでいっぱいです。
――読書はいかがですか。
浅田次郎さんは相変わらず好きですね。『終わらざる夏』とか、ああいうのが好きです。最近ではアンソニー・ドーアの『すべての見えない光』がすごく良かったですね。『アウシュヴィッツの図書係』とか、『HHhH プラハ、1942年』も好きでした。もちろん、川上弘美さん、山田詠美さん、角田光代さんもずっと大好きで、楽しく読んでいます。最近の若い方も、うわあ、うまいなあと思いながら読むものは多いですね。一木けいさんの『1ミリの後悔もない、はずがない。』もすごくいい小説だなと思いました。
それと今、ちょっと興味があるのが憲法24条で。9条の話題の影に隠れちゃっているんですが、24条も改憲案があるんですね。それは家族法の改憲なんですよ。これはまずいのではないかと思い、『まぼろしの「日本的家族」』という、早川タダノリさんの書かれている本なども読みました。
今の24条で守られているのは個人の権利なんですけれど、それを今度は家族という単位に変えていこうとしている。それって乱暴な言い方をすると家族の中で起こったことは家族で解決しようということで、家族になれない人たちはどうするの、と思います。独身とか、同性愛者やバイセクシャルや、あえて事実婚を選んだ人たちとかが、憲法で守られなくなってしまう怖さがある。
そうした気配を察知してか、最近では女性の作家たちもいろんな小説を書いていますよね。田中兆子さんの『徴産制』とか村田沙耶香さんの『地球星人』とか、本当にすごいなと思いました。『地球星人』の、誰もが身に覚えのある親戚の集まりとかの感じから始まって、あのラストの突き抜け方、びっくりしました。男性の作家も、白岩玄さんの『たてがみを捨てたライオンたち』も興味深く読みました。
最近の生活、次作について
――一日のサイクルはどのようになっています?
うっ...。
――うっ?(笑)
いえ、あの、さぼっているわけではないんですけれど、机に座っている時間が少ないので、編集さんにご迷惑をおかけしているつもりではないんですけれど。週に3日くらいしか書かない。他はあちこちに出かけているんです。調べものをしていることが圧倒的に多い。それこそ図書館や本屋さんに行ったり、情景が必要だと思ったら、その景色を見に行ったり。そうするとやっと筆が動き出すので。私の場合、映像が浮かばないとまったく筆が動かなくなっちゃうんですよ。たとえばオペレーターの人が出てくるとすると、描写するわけでなくても、どんな電話を使っているのかが浮かばないと指が動かない。
――ああ、じゃあ、どこかの公園で古内さんを見かけても、お散歩しているのではなく、取材しているのだ、と思ったほうがよいですね(笑)。
そう言っていただけるとすごく嬉しい(笑)。それで、書く時は集中して書くんです。
――古内さんは、競馬の女性ジョッキーから映画会社の話から夜食を出してくれるカフェの話まで、さまざまな題材で書かれていますよね。
いろんなものを書いているとよく言われているんですけれど、自分ではわりと一貫していると思っているんですね。やっぱりマイノリティの話が多いですし、世間一般からはみ出した人たちが主人公になっていることが圧倒的に多いです。『風の向こうへ駆け抜けろ』とか『蒼のファンファーレ』は競馬シリーズですけれど、描いているのは女性差別。他に出てくるのも中央競馬でスキャンダルを起こした人とか、失声症の人とかですし、夜食カフェの「マカン・マラン」シリーズにしても、狂言回しになっているのがドラァグクイーンですからね。出てくる人たちも社会のなかで生きづらさを抱えている人たちが多いので。
――その「マカン・マラン」シリーズも第四弾の『さよならの夜食カフェ マカン・マラン おしまい』でいよいよ完結ですね。そもそもなぜドラァグクイーンが料理をふるまってくれる夜だけのカフェ、という設定を思いついたのでしょうか。
やっぱり会社員時代、夜10時に会社を出られれば早かったんですが、そうすると女性が入れるお店が少ないんですよ。お腹はぺこぺこですが、作るのはもう面倒くさいし、お店に入るとするとラーメン屋か居酒屋しかない。私はお酒が飲めないし、こういう時に野菜スープとか飲ませてくれるお店があったらどんなにいいだろうという、夢ですね。
――毎回美味しそうなメニューが登場しますが、これはどのように考えたのですか。
編集者に「何が食べたい?」と訊いていろいろ話し合ったりしましたね。これって春夏秋冬の話なので、この季節だったら何を食べるだろうとか。野菜中心にするということは決めていました。「さよならの夜食カフェ」の2話に出てくるキャロットケーキなんかは、実体験というか。シンガポール料理屋に行って「キャロットケーキを頼んだのにキャロットケーキが入っていない」と大騒ぎしていたら「シンガポールのキャロットケーキは実は......」と言われて。それをそのまま小説に使ったりして。
――まだまだ続いてほしいシリーズでもありますが、本当におしまいなんですか。
1冊目を書いた時はシリーズ化は決まっていなかったんですが、「非常に評判がいいので次回を書きませんか」というお話をいただいて。その時に思ったのは、「私と考えていることが同じ人って世の中にいっぱいいるんだな」ということ。23時にやっとご飯が食べられる、という人がいっぱいいるんだな、って。それで「じゃあやってみましょう、それで、四部作にしませんか」と言いました。2の「ふたたたび」3の「みたび」、4の「おしまい」という。まあ、続きを書くとしてもまた違う形になると思います。迷っている人が出てきて、お店に行って...というパターンはこれで終わりです。
――今後の執筆のご予定は。
「キノノキ」というサイトで「アネモネの姉妹 リコリスの兄弟」というのを書いています。それは「兄弟姉妹は一番近くにいる謎」ということで、ちょっとミステリーっぽいもので、なんとモデルはほとんどキノグループの方です(笑)。みなさんにアンケートに答えていただいて、それで面白かったところを追加取材させていただきました。小説よりも面白い話が多かったんですけれど、オチは私がつけさせていただきました。「バッドエンドも書きますよ」と事前にお伝えしてあります。それと、来年の6月くらいから「キネマトグラフィカ」の続編の連載が「ミステリーズ!」で始まります。第一弾は映画がフィルムだった頃を書いていますが、次はミニシアターブーム、映画が一番お洒落だった頃の話です。他は、書下ろしの準備をしているところですね。