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#06 口も心も緩む牡蠣のラクレット 斎藤千輪さん「ビストロ三軒亭の謎めく晩餐」

 ごくり、と芙美子が喉を鳴らす。隆一は生牡蠣を一ピースだけ取り皿にのせ、そこに熱いチーズをかけて、芙美子の前に置いた。(中略)芙美子がカットした牡蠣を口に運んだが、「……やっぱり、味がしない」と言って、静かにカトラリーを皿に置いた。「でもね、隆一くんがチーズをかけてるの見てただけで、どんな味がするのか想像できたんだ。生牡蠣がチーズの熱で湯引きされたようになって、甘味が増してる。中はプルプルで、噛むとジュワーって牡蠣のエキスが口に広がるの。まろやかなチーズとの相性も最高で。……うん、めちゃくちゃ美味しいよ」 (『ビストロ三軒亭の謎めく晩餐』より)

 誰にでも、あえて他人には言わなくてもいいような悩みや、誰にも話したくない秘密ってありますよね。今回のお話の舞台「ビストロ三軒亭」は、そこで働く人たちも、やってくるお客様も、それぞれに悩みを抱えている人たちばかり。このお店には決まったメニューがなく、食べたいものや好みをギャルソンに伝えると、オーナーシェフの伊勢がその人だけのオリジナルコースを作ってくれるお店です(&全員イケメン☆)。

 役者志望だけど中々芽の出ない隆一は、姉の紹介で東京の三軒茶屋にある「ビストロ三軒亭」のギャルソンとして働き始めます。この店で少しずつ前に進んでいく人たちを見て、隆一も「自分の進む道」を見つけ出していく、というお話です。作者の斎藤千輪さんに、作中に出てくるおいしそうなメニューの裏話も伺いました。

フレンチに懐石料理のような親近感を感じた

——作品の舞台を三軒茶屋にした理由を教えてください。

 三軒茶屋の周辺には知り合いが多くいて、しょっちゅう飲食するなじみの街だったんです。どんなお店にしようかと色々辺りを見て回っていた時に「あ、ここだ!」と、作品の大ヒントになっているモデルの店をたまたま見つけたんです。お料理が美味しいのはもちろん、その店で働いているスタッフみなさんが素敵で、今では頻繁に通うようになりました(笑)。

——「アントルコート」や「七面鳥の栗詰め」など、本格的なフレンチが出てきますが、元々お好きだったのですか?

 特に好んで行くタイプではなかったんですが、この作品の取材のためにフレンチの食べ歩きが始まったんです。初めはハードルが高いと思っていましたが、どのお店でもとても親切に教えてくれて、理想のギャルソンのイメージを聞いたり、美味しかったメニューのレシピを聞いてアレンジしたりして、作品の参考にさせていただきました。恵比寿にある「ラ ターブル ドゥ ジョエル・ロブション」でもギャルソンさんが給仕しながら色々とお話ししてくれて、しかも、休憩中に私のデビュー作をネットで買ってくださったんです! 一流のお店って、サービスがいろんな意味で素晴らしいことが分かりました。大衆的なビストロからグランメゾンまで行きましたが、それぞれの良さがあって、それをミックスしたのが「ビストロ三軒亭」なんです。

——お料理で胃袋をつかみ、サービスで心もつかむ。実際に行って食べて、体験しないと分からなかったことですよね。もしご自身が「ビストロ三軒亭」に行ったら、どんなオーダーをしたいですか?

 お店の基本設定が、その人の求めるもの、必要なものを出してくれるので、今だったら寝不足だから「食べたら睡眠がとれた気分になれる料理を」って言ってしまいますが(笑)、もう少しロマンチックに考えると、フランス料理って歴史が長いから、紐解いていくと面白いエピソードがたくさんあるんです。例えば、イタリアから嫁いできたカトリーヌ王妃がフランスにフォークを持ち込むまで、宮廷でもお肉の丸焼きをナイフだけで食べていたと聞いたことがあります。なので「その時代の料理を再現して!」ってオーダーしてみたいですね。

——そういうオーダーだと、作る人も色々とイメージできるから楽しそうですよね。「ビストロ三軒亭」のシェフなら、きっと事前に文献とか調べてくれるんだろうなぁ。

 フランス料理って“素材をどう生かすか”というところが、懐石料理に近いなと思うんです。どちらも食べたら一瞬で消えてしまうのに、見た目も味も精力を注いで作られていて、刹那的で美しいなと思います。新鮮な素材が手に入らない内陸部だからこそ発展したソース文化や、瓶詰などの保存法、お酒との組み合わせも、何のためにこれを選ぶのかちゃんと理由があって、調べれば調べるほど親近感が沸き、興味を掻き立てられました。

——常連客の「3人の魔女」のために用意したメニューが牡蠣のラクレット。味覚障害であることを告白する芙美子に対し「実は私も……」と、他の2人もそれぞれ抱えていた“秘密”を話し始めます。それぞれが自然と自発的に話したのは「あたたかい料理をみんなで囲むこと」が大切だったんだなと思いました。

 牡蠣は亜鉛が豊富に含まれて、芙美子の味覚障害につながるために選んだ食材ですが、ラクレットという調理法なら、提供するギャルソンも見ているほうもみんなでワイワイ楽しめる料理だからという理由で選びました。私、一緒に楽しく食事をする間柄には垣根がない方が好きなんです。悩みや秘密って、恥ずかしいからあんまり人に言いたくないってこともありますけど、言えたらもっと楽になるかなって。その方が周りも特別視しないし、そんな環境にいたらストレスがなくなるんじゃないかという、自分の理想の世界でもありますね。「美味しいな、幸せだな」って思っていたら、誰かを攻撃したりしないだろうし、口も心も緩むんじゃないかって思うんです。