横綱土俵入りを見るたびに奇妙に感じるのは、腰に締める綱から御幣がさがっていることである。神棚を腰に巻いている姿で、いくら国技といったって、裸になった「現人神(あらひとがみ)」が四股を踏む姿は芸能に近い。四股にあわせて観客がヨイショッと声をかけるのは、歌舞伎舞台に似ている。
大鵬監修『相撲道とは何か』に、綱に幣を垂らした土俵入りが天下公認となったのは江戸時代、第十一代将軍家斉の上覧相撲からとある。番付の最高位は大関で、横綱は名誉称号。強豪大関でも横綱免許を与えられない力士がいた。力士は大名のお抱えで、力関係や派閥争いで横綱を逃すケースがあった。そのころ横綱は「免許される」称号で、地位となって以降は「横綱に昇進する」となった。
土俵は神の降りる場所で、取組の前に塩をまくのは穢(けが)れをはらうため。土俵入りは地下の悪霊を踏み鎮めるという意味がある。神事と芸能、競技が三位一体の地鎮である。そのため、横綱には品格が求められる。
といっても、客は品格を見るために相撲観戦するわけではない。品格を見るのならば禅や瞑想(めいそう)などほかの方法がある。相撲という鍛えぬかれた肉塊がぶつかる格闘に熱中するのである。本場所でナマの相撲を観戦すると、力士がガツーンとぶつかる音と息づかいに慄然(りつぜん)となる。
「ただ一枚強い」
双葉山著『新版 横綱の品格』は六十九連勝した国民的英雄力士の回想録である。双葉山は大分県宇佐郡に生まれた。石炭を運ぶ回漕(かいそう)業の息子で、小舟で櫓(ろ)を漕(こ)いで「腰の力」が強くなった。六歳のとき右目を痛めてほぼ失明した。九歳で母を亡くし、十三歳のとき父の船が沈没して九死に一生を得た。十五歳で立浪部屋に入門。一七三センチ、七一・二キロの小型力士だった。猛稽古で横綱に昇進したのは二十五歳。六十六連勝となったのは二十六歳の夏場所で、そのころは年二場所だった。
巡業先で赤痢にかかり入院して、体重が激減した。翌年の春場所四日目、安藝ノ海(あきのうみ)に敗れて七十連勝ならず。山に籠(こ)もって滝に打たれ、苦行精進し、二十九歳の春場所から三十一歳の夏場所まで四連覇。三十三歳のとき引退し、四十五歳で相撲協会理事長に就任した。劇症肝炎のため五十六歳で死去。「受けて立つ」相撲、いわゆる「後手のさき」は白鵬が横綱の心得として信奉している。「さほど強くない」が、「どの相手よりもただ一枚強い」。
双葉山はさまざまなハンディキャップをのりこえて闘った生涯が、「品位」というレベルを超えた存在だった。
「負けて覚える」
『大相撲 横綱が残す100の言葉』は、歴代横綱の名言集。稀勢の里は「自分は力士として生きているから、土俵の上でしか表現できない」。白鵬は「強い人は大関になる。宿命のある人が横綱になる」という信念の人。「相撲は負けて覚えるもの。勝って覚える相撲はどこにもない」は朝青龍。「横綱の品格に欠ける」と批判された朝青龍の相撲は、いま思い出しても身の毛がよだつ壮絶なものだった。相撲は興行だから、ヒール(悪役)が重要なのである。朝青龍にはヒールの風格があり、相撲界が「品格」を持ち出して角界から放逐したときは口惜しい思いをした。貴乃花は「勝負事はやっぱり勝たなければいけない」と、引退まで勝つことに執着した。
「横綱の品格」は力士によって違う。大相撲中継でおなじみの五十二代横綱・北の富士はサインを求められたとき、「忍耐」「努力」と色紙に書かなかった。「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」が北の富士の自負である。北の富士らしくてカッコいいなあ。=朝日新聞2019年2月23日掲載