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篠山竜青さんインタビュー(後編) 進化する日本バスケットボールの見どころ

文:熊坂麻美、写真:斉藤順子、競技写真は© KAWASAKI BRAVE THUNDERS

篠山さんがマンガ「SLAM DUNK」の魅力を語る前編はこちら

「ディフェンス」「ルーズボール」「声出し」が僕のバスケの原点

――バスケットを始めた頃のことを教えてください。

 母がミニバスチームのアシスタントコーチ的な感じで手伝いをしていて、そのチームに8歳上の兄と5歳上の姉が入っていました。そのとき僕は2歳くらい。ひとりで留守番ができないから一緒に体育館に行って、父母会のお母さんたちに遊んでもらいながら、みんなの練習を見ながら大きくなりました。それで自然とボールを持ち始めた感じです。チームはけっこう強くて、僕が5年生のときには全国大会でベスト8までいったんじゃないかな。

――ミニバス時代に教わったことで、今も大事にしていることはありますか?

 ディフェンスを必死にやる、ルーズボールは頭から飛びつく、声を出す。この3つです。これは母にもよく言われましたし、チームが大事にしていたことなんです。シュートはどんなに練習しても好不調があるけど、ディフェンス、ルーズボール、声出しは、やるか、やらないか。これまでのバスケ人生を振り返ってみても、たとえ調子が悪いときでも、この3つさえ徹底できていれば大きく崩れません。

 Bリーグでも日本代表でもそうですが、自分よりうまい人、点を取れる人はいっぱいいます。そのなかで、どうやってチームに貢献するか、どの部分で安定しているかというのは、ひとつの評価基準になります。自分はディフェンス、ルーズボール、声出しをどんなときもハードにやる。それが強みだし、それをやってきたから日本代表までたどり着いたと思うんですよね。

――ポジションはずっとポイントガードですか? 前編で『SLAM DUNK』にはいろんなタイプのポイントガードが出てきておもしろいというお話がありましたが、篠山さんは誰に近いタイプですか?

 僕は小さいときからポイントガードです。スピードを生かして切り込んでレイアップしたりアシストしたりする、リョーちんみたいなタイプでした。だから、深津とか牧とか、司令塔らしく落ち着いてチームをリードするような「コート上の監督」タイプに憧れがありました。

 司令塔といえば、陵南の仙道が湘北戦で言うセリフ「まだあわてるような時間じゃない」を思い出します。これは湘北にリードされて残り時間が少なくなってきて、チームの雰囲気が重苦しくなってきたときのひとコマ。こういう状況のときこそ、冷静にチームを鼓舞して導く、司令塔らしいセリフでカッコいいんですよ。

――司令塔として、このセリフを試合中に使ったことは?

 ある、かな……? いや、でも仙道みたいには言えてないですね。仙道は両手をこう前にだして、首を振りながらクールに言うんですよ。僕は自分が一番バタバタ慌てながら「ま、まだあわてる時間じゃないぞ!」とか言ってる感じです(笑)。

――さすが、細かいところまで覚えています(笑)。篠山さんは神奈川県から福井県の北陸高校へ進みました。高校から県外に出るつもりだったのですか? 『SLAM DUNK』にも北陸高校を思わせるチームが登場しますよね。

 福井代表の堀高校ですね。モヒカンの奴がいて奇抜な感じのチームだったので「堀にはモヒカンがいるから俺らも派手にいかないとな!」とか言ってましたよ。僕らは全員坊主でしたけど(笑)。

 北陸を選んだのは将来を見据えて、です。中学くらいのときから、将来トップリーグでプレーしたいという気持ちが強くなりました。当時は実業団リーグで今よりずっと狭き門。大学からトップリーグに行けるのは毎年10人くらいで、その半数が大学の関東1部リーグの選手でした。

 トップリーグを目指すために、関東1部の大学に行かなきゃいけない。その強豪大学から推薦をもらうためには、高校のときにインターハイや全国大会で少なくともベスト8に入って、主力で活躍しないとむずかしい。そうやって考えていくと、県外の強い高校に行った方がいいだろうなと漠然と思っていました。そのなかで北陸高校から声をかけてもらったので、ふたつ返事で。

――先を思い描いて逆算していったのですね。その青写真通りに、インターハイで優勝をして、関東1部の日大に進学しました。

 僕はとても現実派。日大に行ったのも、一番早く試合に出られそうだったからです。日本代表級のガードがいる大学にあえて進んで、その人をぶち抜いて自分がレギュラーに、というのもカッコいいですけど、ガードが手薄な大学に行った方が下級生のときから試合に出られる可能性が高いし、試合のなかで各大学のポイントガードと対峙して成長していけば、外へのアピールにもなる。そう考えました。実際、大学1年のときは6~7番手で、2年でスタートメンバーに入り、3年のときにインカレで優勝しました。

――大学卒業後はトップリーグの強豪・東芝へ。エースガードとして、2014年からはキャプテンとしても活躍されてきました。その一方で日本代表入りは2016年と、思いのほか最近です。焦りや「なんで選ばれないんだ?」みたいな気持ちはあったのでしょうか。

 焦りはありましたけど、「なんで?」とは思わなかったです。このままじゃ選ばれない、もっとうまくならなくちゃ、もっと影響力のある選手にならなくちゃと思ってやっていました。ただ正直、常に愚直に純粋に代表を目指してこられたかというと、そうではないです。チビでこれといった武器もない自分は代表に縁はないんだと、何度もくじけそうになったし、葛藤はすごくありました。

 だから選ばれたときはすごくうれしかった。でもいざ代表に入ると、今度は呼ばれなくなることが迫ってくるというか。一度代表から外れてしまうとまた呼ばれることはなかなかないので、その緊張の日々が始まったなという気持ちにもなりました。

日本のバスケを今より強く、メジャーにしたい

――篠山さんは過去にアンダーカテゴリーの日本代表にも選ばれています。そのときとはやっぱり重みが違いますか?

 まったく別物です。A代表が負けると「日本のバスケ」が負けたことになるから、プレッシャーは段違いです。ワールドカップ予選でも最初に4連敗したときは、かなり風当たりが強かったですし。

――でも4連敗のあとは快進撃でしたね。

 ひとつ大きいのは、川崎ブレイブサンダースのチームメイトでもあるニック・ファジーカス選手が帰化して、日本代表としてプレーできるようになったこと。あとは、アメリカで活躍している渡邊雄太選手と八村塁選手を夏の時期に招集できるようになったこと。このふたつが日本にとって大きな後押しになりました。

 ターニングポイントになったのはやっぱり、昨年6月のオーストラリア戦です。ニックと八村が入ったとはいえ、世界ランク10位の強豪国に勝てたことは、自分たちがやろうとしてきたことが間違いじゃなかったという証明にもなって、ひとりひとりの自信につながりました。4連敗して暗闇の中をみんなでもがいていた感じだったので、一気にトンネルを抜けたような、そんな勝利でした。

――このときはバスケットファンも大いに沸きました。

 バスケット界ではとても大きなニュースでしたよね。とくにBリーグが始まる前から応援してくれていた人たちは、すごく喜んでくれたと思います。ただ、サッカーのワールドカップと時期が重なっていたこともあって、日本中の誰もが知るニュースになったかというと、そうではない。もっともっとポジティブなニュースを発信し続けないとサッカーや野球には追い付けないと感じています。でも遠くない将来、それが実現できるんじゃないかという手ごたえも持っているんです。

――日本のバスケットはもっとメジャーになると?

 そうです。Bリーグが発足して今年で3年目になりますが、以前よりバスケ人気が高まっているのも、日本代表のチーム力が上がっているのも、間違いなくBリーグ効果だと思います。いま渡邊がNBAでプレーしていますが、来年は八村もドラフトでNBA入りすると思うので、それもきっと日本の追い風になる。そしてワールドカップと東京オリンピックで、気持ちの入った魅せる試合をすることで、ほんとに日本のバスケットが変わるんじゃないかと思っていて。

――それを篠山さんが主将として引っ張っていくのですね。

 そうありたいです。東京オリンピックにキャプテンとして出場して、プレーでチームに貢献することが、僕個人の最大の目標なので。あとは日本代表がもっと強くなるために、Bリーグを今以上に盛り上げていくことも必要だと思っています。連戦連戦でスケジュールがハードでしんどいんですけど(笑)、いい緊張感とワクワク感を持ってやっていきたいですね。これからも日本代表とBリーグの応援をよろしくお願いします!