私が大学へ入った1970年代初めは「埴谷万年、吉本千年」という言葉がまだ生きていて、埴谷雄高『幻視のなかの政治』、吉本隆明『共同幻想論』がもて囃(はや)されていた。そんな時代にたまたま花田清輝の『復興期の精神』を手にした。「生涯を賭けて、ただひとつの歌を――それは、はたして愚劣なことであろうか」といった外連味(けれんみ)のきいた言葉がちりばめられ、戦時下で書かれたとは思えない知の煌(きら)めきを感じた。
が、当時の学生たちの花田の評価といえば、花田・吉本論争でコテンパンにやられたオールド左翼、花田を読んでいるというと白眼視されること必至。密(ひそ)やかにではあるが、手に入る限りの花田の本を読みあさった。おかげで、ルネサンス、戦後文学、映画、演劇……と一挙に読書の範囲が広がり、尾崎翠、秋元松代、小沢信男、廣末保といった名前も知る。
花田が亡くなったのは1974年9月23日。葬儀の日、東京文京区の白山上の花田家まで出かけた。無論、遠目で見ていただけだが、花田が敬愛していた批評家・林達夫のハイヤーから降りる姿を目にもした。帰路、白山の坂を下りていると、下から哲学者の久野収さんが坂をゆっくり上ってくる。すれ違いざま久野さんは「ご苦労さん」というように笑顔で軽く会釈をしてくれた。きっと花田ファンの若者と見抜かれたのだろう。強靱(きょうじん)かつ柔軟な久野さんの思想そのままの笑顔。こういう人の話を聞いてみたい。あの久野さんの笑顔が編集の世界への扉だったのかも知れない。=朝日新聞2019年4月17日掲載
編集部一押し!
- 本屋は生きている 機械書房(東京) 受け継いだ本屋のバトン。置きたい本と、末永く伝えていく言葉 朴順梨
-
- とりあえず、茶を。 知らない人 千早茜 千早茜
-
- えほん新定番 柳田邦男さん翻訳の絵本「ヤクーバとライオン」 真の勇気とは? 困難な問題でも自分で考え抜くことが大事 坂田未希子
- 中江有里の「開け!本の扉。ときどき野球も」 自力優勝が消えても、私は星を追い続ける。アウレーリウス「自省録」のように 中江有里の「開け!野球の扉」 #17 中江有里
- BLことはじめ 「三ツ矢先生の計画的な餌付け。」 原作とドラマを萌え語り! 美味しい料理が心をつなぐ年の差BL 井上將利
- 谷原書店 【谷原店長のオススメ】梶よう子「広重ぶるう」 職人として絵に向かうひたむきさを思う 谷原章介
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社
- インタビュー 物語の主人公になりにくい仕事こそ描きたい 寺地はるなさん「こまどりたちが歌うなら」インタビュー PR by 集英社
- インタビュー 井上荒野さん「照子と瑠衣」インタビュー 世代を超えた痛快シスターフッドは、読む「生きる希望」 PR by 祥伝社